2021/12/20

 松村宗棍等の関連で琉球王と空手についてのいくつかの逸話が残されていますが、首里城の特定の場所を具体的に言及しその場所で演武が行われたという余話は珍しい。

 時は1866年、琉球国最後の王となる尚泰王の冊封式典が執り行われた。そのセレモニーが滞りなく終了し、翌年その祝賀が御茶屋御殿で開催された。その後赤田御門の尚泰王の御前で、空手・古武術がご披露されたと云う。⦅2019年、空手関連史跡案内での浦崎泰子(学芸委員)談話。また首里城に関する文献等によりますと『美福門』、『赤田御門』、そして『継世門』と名称がうつり変わる⦆

 

 そのことの史実を裏づけるように久米村の史料「打花鼓(ターフワーク)」に、18673月、崎山の御茶屋御殿で「三六九並諸芸番組」が紹介され、その後、武芸が披露されたと記録されている。

 参考:《諸事番組通り進行して七つ時分終了すると、久米村の村中では三六九並に諸芸人を迎うるため、旗頭一旒揚げて綱引き行列をなし、崎山馬場まで練って来たので、仕手人衆は演戯装束の儘これに加わり、正に久米村オン・パレードを現出した。帰路赤田御門にさしかかると、上様には御門に御楷を架けさせて控え居られたが、御側御使を以て、重ねて武技を演ずるよう、御意仰せ付けられたので、御門前路上で五つ組ほど演じて御暇乞い、天王寺の前から町端を経、下綾門に出て一路久米村へ帰っていった。》(島袋全発著作集、発行1956年)

 

(参考:首里城ガイドツアー第12弾「経世門と美福門」https://www.youtube.com/watch?v=3lHcdPHnm8I)