2019/07/02

 

1961年1122

古武道⑤

 

祖堅〝松村〟の後継者

祖堅方範(70歳)

銷鎌

 

 明治二十四年西原村我謝に生まれる。現在少林流空手・古武術師範として門弟の指導にあたっている。

 祖堅さんが空手を始めたのは十二歳のとき、母カミーさんの兄松村さん(三代目・首里)から手ほどきを受けた。男の子が年ごろにもなってぶらぶらしていたんじゃろくな人間にはなれないと空手を仕込まれたというが、まだ子どもであった祖堅さんには当時のけい古はだいぶ苦しかったようだ。十二歳のとき親元を離れてから松村道場に住み込み、朝は門弟より早く起きてあさけい古、夜もおそくまでけい古をしたという。最初は軽いけい古であったが、上達するにしたがってゲタの脱ぎ方から逃げるけい古までやった。「空手に先手なし」といわれているように空手を修業するものは、「いかにして逃げるか」も研究しなければいけないと語っていた。

 沖縄全島の武術家を一堂に集めた演武会が大正十三年那覇の大正劇場で行なわれたといわれているが、祖堅さんも喜屋武朝徳(チャンミー小)本部朝祐(本部サールー)らとともに出演した。

 祖堅さんは武歴五十八年、その間宮古やアルゼンチンにも渡ったが武術に精進し戦後故郷の西原村我謝に松村先生の正統な後継者として少林流と名乗り、道場を開いた。

 今までに教えた弟子の数は約二百人。現在の約二十人の門弟が毎日けいこに励んでいる。こんどの発表会では鎖鎌を演武するが弟子からも六人出演する。

(現住所西原村我謝)

 

 

大屯棒を演ずる城間

城間大盛(77歳)

大屯棒

 

 明治十八年大里村字大城に生まれる。幼いころ、部落の祭りで青年たちが勇敢な姿で、棒術を演武するのを見て興味をもった。

 十七歳になって村で棒術を教えている普天間大越先生へかよいはじめた。運動神経に恵まれていたので先生も「君はきっとうまくなるよ」と、人一倍かわいがってくれた。それから終戦後の二、三年までつづけた。「年には勝てないもので、いまでは棒を振るのがやっとですよ・・・」と、若いときを思い出して、じれったい表情で語った。

 昭和三年、与那原国民学校で行われた今上天皇の後大典記念演武会で、演武したこともある。そのときの演武が唯一の思い出になっている。

 「部落の青年たちにも、棒術を習って体をきたえるようにといってきたが、今の若いのは棒なんて見向きもしない。いつでも一人で楽しめるし、いなかではもってこいの運動ですがね。こんどの公演でも部落の青年に分るのがいたら、若いのにさせるが、だれもいなくて困っている。私は大屯棒の手数だけ披露するのがやっとですよ」とひかえめに話している。

 長男の盛光さんには子供のときから教え、大屯棒を身につけているが、現在は静岡県の沢津市に住んでいるという。自分のむすこにはわがままがきくから、月夜には夜中に起こして、丘でよく教えた。

 「こんど古武道の発表会があって、私が大屯棒をやると手紙で知らせたら、むすこも喜んで体に気をつけてしっかりやるようにと激励している」と語り、そのあと床の間に置いてあった棒を取り出し〝大屯棒とはこんなものですよ〟と演武して見せた。

(現住所大里村字大城)

 

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