2019/09/13

 9月12日、沖縄県空手振興課による新しい企画展「空手を伝え、広める!-近代の空手教師たち-」が沖縄空手会館の企画展示室で公開された。

 

 

 公開を機に、県空手振興課非常勤職員で空手の研究に務める仲村顕氏は、企画展のオープニングイベントとして「糸洲安恒写真の新たな比定について」を表題としたレクチャーを行った。下記では、当日配られた資料を基に発表の内容を紹介します。

 今年3月に開催された沖縄空手アカデミーでの発表(参考:糸洲安恒~写真の再検証)後、仲村氏は継続的に写真資料の収集・確認作業を行い、3月下旬頃に高知市民図書館(オーテピア高知図書館)の中城文庫に沖縄関係史料が多くあることに気づいた。

 中城文庫は、高知の旧家・中城家旧蔵資料から成る文庫です。この家の故中城直正氏(1868-1925)は、沖縄県中学校の教師を務めていた方で、仲村氏が確認している限りに於いて、沖縄人以外で最初に唐手を修めた人物です(1)。

 同文庫には、45点の沖縄関係の写真があり、その内、「沖縄県立中学校教員生徒」という学校関係の写真は5枚見つかった。

 そこで仲村氏は写っている人物に的を絞り、細かい調査を行い、各写真の年代を明らかにしていった。

 結論から言いますと、5枚の写真は、19033月から19073月の同校の第15回卒業式から19回卒業式のものであることが分かった。尚、写真の年代を決めるヒントになったのは、1905年から3年間英語の嘱託教授であったヘンリー・アモア氏(2)だったという。

 沖縄県立中学校の沿革によると、糸洲を聘し唐手の教授を始めたのは19051月からで、卒業写真に写る可能性があるのは19053月の第17回卒業式以降のものと推測されます。そして、見つかった5枚の写真のうち3枚が対象写真であり、そのうち2枚には、糸洲と比定する人物は写っておりません。

 1831年生まれの糸洲安恒は、当時74歳(数え75歳)で、その年齢の方と見て無理のない人物を一人だけ上げることがでた。1905年付の第17回卒業写真の前列二列目の右端に位置し、右手に杖を突いているように見える人物が糸洲安恒と仲村は判断した。

 

 

 しかし1908年以降卒業写真に当該人物の確認はできていない。

 ところで、糸洲は「杖にすがり腰は弓なりのハ十才の御老体」であったと、1917年卒業の神村孝太郎氏は回想録に綴っている。この条件を満たす人物は他に見当たらないので、神村の回想は、「これが糸洲安恒その人であろう」という蓋然性を、ますます高めるものである。

 レクチャー会場に、糸洲安恒のひ孫にあたる糸洲昇氏(76歳)が来場しておりました。氏は空手家ではありませんが、「曾祖父は争い事の嫌いな人でしたと聞いています。写真が見つかってうれしい。ぜひ、早めに確定してほしい」とコメントを残した。

(1)仲村氏の調査によると、中城氏は、1902年から1907年まで在沖しておりました。仲吉良光の「唐手体操の始祖一中の誇/―其の動機を作つた我等の/級友松田君をしのぶ―」(『養秀』35号(1934年所収))に「近代唐手の大家糸洲翁を聘して唐手を学校に移入させることにより最初はまず職員に稽古させたものだが時の教頭中城先生の熱心な稽古振りなど全校生の評判となったものだ」と記載されています。また、山内盛彬「空手随想」(月刊空手道)13号、1956年所収)にも「中城という小柄で不器用の人が教頭を勤めていた。その人の空手たるやまるで蝿を払うような手つきであったが、その人の熱心さに心を打たれた」とある。

(2)那覇市市民文化部文化財課が那覇市泊にある外国人墓地に建てた案内板によると、ヘンリー・アモア氏は英国人で、当時1908年沖縄県立中学校の英語教師で、この地で亡くなり墓地に葬られている。墓碑には英語で、「誕生1840620日、没1908216日、沖縄県立中学校の教師」と刻まれている。

1905年の「19053月の第17回卒業式」は、高知市民図書館の所有ものであることから掲載していません。ただいま掲載に向けて調整中です。