特集記事

古武道⑦ 石川逢英並びに比嘉清徳
2019.10.29

 

1961年1124

古武道⑦

 

父はヌンチャクの大家

石川逢英(50歳)

ヌンチャク

 

 明治四十四年首里に生まれる。父逢康さんはヌンチャクの大家として知られて、武芸一家に生まれた逢英さんは子供のときから古武術にしたしみ、十一歳のとき空手を仕込まれた。こんどの発表会には父逢康さんの特技ヌンチャクを披露する。

 ヌンチャクは支那から伝わってきたといわれているが、戦前はあまり普及されなかったので、使い手は少ない。ヌンチャクの特徴は棒より使用範囲が広いことで、攻撃しやすいのが利点だといわれている。型は空手の型をとって自分で編みだして一つの型をつくっている。

 石川さんは子どものときから見たり聞いたりして空手にしたしんでいたが、ヌンチャクは日体大を卒業した二十三歳のときから始めた。空手を一応マスターしてから古武術を始めたので始めたのはおそかったという。しかし生来の起用さが手伝ってけいこを始めてからは上達は早かった。

 「父に甘やかされてけい古をしたので父の半分も使えない」とけんそんして語っていたが、きたる武演会にはファイトを燃やしている。石川さんはヌンチャクの心がまえとして「攻撃が簡単だからといってけっして乱暴をしてはいけない。ヌンチャクはその人の心がけで凶器にもなれば役にも立つ」と語っている。戦後はヌンチャクをけい古している青少年が多く、戦前より普及されつつある。

 

https://www.youtube.com/watch?v=yePfZ4_DDag&feature=share&fbclid=IwAR3-TzqFjLW0vUqc57rbewUl3xzxJzis5lMOQrsuZpY454bH-ri1o9HGlN0

 

 

古武道の復活に尽す

比嘉清徳(41歳)

宋氏のこん

 

 大正十年首里の末吉町に生まれる。古武道協会の会長で、古武道の復活には人一倍に情熱をかたむけている。「流派をこえ純粋な武道愛で、郷土の古武道を復活させたい・・・」と、抱負をのべている。現在、法務局民事課長で、めがねをかけたやさしそうな風貌だ。どうみても棒の使い手とは信じがたいタイプである。だが空手着をつけ棒を握るととたんに、きびしさと鋭さを感じさせる。こんど発表する宋氏のこんを披露したが、関節の鳴る音や棒で風を切る音を立てながら、道場いっぱいに動きまわった。〝陰れ武士〟とはこういう人のことだろうか。宋氏のこんとは山根流の基本型で、家元の知念正美氏から指導をうけたという。

 写真は棒一本で全身を防御した宋氏のこんの一コマである。

 十歳のころから棒に親しみ、最初はおじさんから手ほどきをうけた。それ以来、四十年間も棒ひと筋に精魂を打ちこんだ人である。昭和四年中大の法科で学ぶかたわら、学生会を中心に活発な演武活動を行なった。とくにやすみなどのときには、宮本武蔵の小説に刺激され、全国行脚の武者修行にいそしんだという。「野宿をしたり、雨が降ればお寺で一夜を過ごしたりまた滝に打たれて精神の修養をしました。そのときの修行は、毎日の生活にも大いにプラスになりますね。また学生生活のいい思い出にもなっている」と、語っている。

 

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古武道⑥ 野原蒲一並びに高良茂
2019.10.08

 

1961年1123

古武道⑥

 

出演者の最年長者

野原蒲一(83歳)

四方切り

 

 明治十二年東風平村字富盛に生まれる。八十三歳。出演者のなかでもっとも年上である。棒術を知らない部落の子どもたちでも〝野原のおじいさん〟といえば〝棒術の師匠〟だとよく知っている。

 柔道の三船十段のような小柄なタイプで、きびきびした動作は、この人が八十三歳にもなるかと、首をかしげたくなる。

 富盛部落は、戦前は棒の盛んなところで、八月十五夜の日には、南と西に分かれて棒術の演武大会があったという。しかし戦後になって途絶えてしまった。野原さんは部落伝来の棒術(四方切り)を復活させようと、懸命になったが実を結ばなかった。青年たちは棒に対する関心がないようだ。七十年余の棒を握ってきたので、部落から棒が滅んで行くのを寂しがっている。

 一昨年、公民館の落成式のときには、演武を買って出たほど、棒術の好きなおじいさん。部落での結婚式やお祝いがあるときなどは、喜んで演武をひきうけているという。

 「こんど古武道協会の勧めで那覇劇場で演武ができるのはほんとによかった。年で活発な棒を見せることはできないが、型だけはしっかり覚えています」と、はりきっている。七十歳までは七十斤ぐらいの重いのを、かつぐのはなんでもなかったというだけあって、〝四方切り〟を身軽にやってのけた。「よる年には勝てないな」と語りながらも、〝三方切り〟がこれですよと、つづけて演武、まだまだ元気なところを見せた。

 

https://www.youtube.com/watch?v=MMYkaDw08z4&feature=youtu.be&fbclid=IwAR0jqupvhfA5OlW-80GNrxlE5-QqGmLWsUapXNXfwbzX9UqPtgJTbQt3dx8

 

 

気合術と〝セイサン〟を披露

高良繁(53歳)

氣合術

 

 こんどの発表会で気合術とセイサン(空手)を披露する。髙良さんは子どものときから武芸の好きな父蒲戸さんからいろいろな武術を仕込まれて成長した。十歳のときからサイを握ったというからもう四十年余りになる。  

 最初は父のサイやヌンチャクをとりだして遊び道具に使うていどのものだったが、次第に興味をおぼえ、父蒲戸さんがなくなってからも喜屋武朝徳さん(チャンミー小)に師事、空手を本格的にけい古した。髙良さんは空手、古武術、気合術となんでもこなせるが、とくにこんどは協会の希望で気合術とセイサンを演武することになった。

 「気合術」は千葉県安屋郡富田村に住む田村義一さんから手ほどきをうけたが、人間業とは思えないほどのはなれワザを演ずる。腕に六寸五分の針をとおし、それに鎖をつないで大型乗用車を引っぱったり、腹の上から乗用車をとおすので人間ワザとは思えない。那覇劇場での発表会は会場が狭いため、乗用車を乗り入れることはできないが、それに代わる極秘を紹介したいと語っている。セイサンはチャンミー小の形見の一つ。サンチンに似て、型をつくり、筋肉をきたえるのが主な目的で、空手をやる人ならだれでもやらなければいけないものだという。

 気合術は最低二十年修行しなければ、一人前になれないというが、髙良さんの両腕にある無数の針の傷跡は、修業の苦しさを物語っているようだった。

 

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糸洲安恒写真の比定について
2019.09.13

 9月12日、沖縄県空手振興課による新しい企画展「空手を伝え、広める!-近代の空手教師たち-」が沖縄空手会館の企画展示室で公開された。

 

 

 公開を機に、県空手振興課非常勤職員で空手の研究に務める仲村顕氏は、企画展のオープニングイベントとして「糸洲安恒写真の新たな比定について」を表題としたレクチャーを行った。下記では、当日配られた資料を基に発表の内容を紹介します。

 今年3月に開催された沖縄空手アカデミーでの発表(参考:糸洲安恒~写真の再検証)後、仲村氏は継続的に写真資料の収集・確認作業を行い、3月下旬頃に高知市民図書館(オーテピア高知図書館)の中城文庫に沖縄関係史料が多くあることに気づいた。

 中城文庫は、高知の旧家・中城家旧蔵資料から成る文庫です。この家の故中城直正氏(1868-1925)は、沖縄県中学校の教師を務めていた方で、仲村氏が確認している限りに於いて、沖縄人以外で最初に唐手を修めた人物です(1)。

 同文庫には、45点の沖縄関係の写真があり、その内、「沖縄県立中学校教員生徒」という学校関係の写真は5枚見つかった。

 そこで仲村氏は写っている人物に的を絞り、細かい調査を行い、各写真の年代を明らかにしていった。

 結論から言いますと、5枚の写真は、19033月から19073月の同校の第15回卒業式から19回卒業式のものであることが分かった。尚、写真の年代を決めるヒントになったのは、1905年から3年間英語の嘱託教授であったヘンリー・アモア氏(2)だったという。

 沖縄県立中学校の沿革によると、糸洲を聘し唐手の教授を始めたのは19051月からで、卒業写真に写る可能性があるのは19053月の第17回卒業式以降のものと推測されます。そして、見つかった5枚の写真のうち3枚が対象写真であり、そのうち2枚には、糸洲と比定する人物は写っておりません。

 1831年生まれの糸洲安恒は、当時74歳(数え75歳)で、その年齢の方と見て無理のない人物を一人だけ上げることがでた。1905年付の第17回卒業写真の前列二列目の右端に位置し、右手に杖を突いているように見える人物が糸洲安恒と仲村は判断した。

 

 

 しかし1908年以降卒業写真に当該人物の確認はできていない。

 ところで、糸洲は「杖にすがり腰は弓なりのハ十才の御老体」であったと、1917年卒業の神村孝太郎氏は回想録に綴っている。この条件を満たす人物は他に見当たらないので、神村の回想は、「これが糸洲安恒その人であろう」という蓋然性を、ますます高めるものである。

 レクチャー会場に、糸洲安恒のひ孫にあたる糸洲昇氏(76歳)が来場しておりました。氏は空手家ではありませんが、「曾祖父は争い事の嫌いな人でしたと聞いています。写真が見つかってうれしい。ぜひ、早めに確定してほしい」とコメントを残した。

(1)仲村氏の調査によると、中城氏は、1902年から1907年まで在沖しておりました。仲吉良光の「唐手体操の始祖一中の誇/―其の動機を作つた我等の/級友松田君をしのぶ―」(『養秀』35号(1934年所収))に「近代唐手の大家糸洲翁を聘して唐手を学校に移入させることにより最初はまず職員に稽古させたものだが時の教頭中城先生の熱心な稽古振りなど全校生の評判となったものだ」と記載されています。また、山内盛彬「空手随想」(月刊空手道)13号、1956年所収)にも「中城という小柄で不器用の人が教頭を勤めていた。その人の空手たるやまるで蝿を払うような手つきであったが、その人の熱心さに心を打たれた」とある。

(2)那覇市市民文化部文化財課が那覇市泊にある外国人墓地に建てた案内板によると、ヘンリー・アモア氏は英国人で、当時1908年沖縄県立中学校の英語教師で、この地で亡くなり墓地に葬られている。墓碑には英語で、「誕生1840620日、没1908216日、沖縄県立中学校の教師」と刻まれている。

1905年の「19053月の第17回卒業式」は、高知市民図書館の所有ものであることから掲載していません。ただいま掲載に向けて調整中です。

県民の安全安心を守る空手の警察官たち
2019.09.02

     8月29日に、石川市にある沖縄県警察学校で、初めての沖縄県空手道連盟による段位審査会が行われた。

 

 

 沖縄で空手と警察と言えば、三大流派の長嶺将眞(松林流)、宮城長順並びに宮里栄一(剛柔流)、米須清(上地流)などの先生方の名が浮かぶ。4名とも、警察官や教官として活躍しつつ沖縄空手の大家として足後を残した。(注釈①)

 日本の警察では、柔道・剣道の初段をとらなければ、警察学校の卒業ができないぐらいの世界で、卒業後、柔道又は剣道の稽古も続く。

 しかし空手発祥の地において、沖縄の警察官になろうとする男女たちは、柔・剣道だけでなく、沖縄伝統空手の稽古にも励むようになっている。

 県警察学校の空手導入は2013年に遡る。指導を担ったのは、当時警部補で剛柔流6段の与儀実勝氏。その後、同じ剛柔流で警察官の都澤隆幸氏も指導を担ったが、正式な校内師範席がなくて、2年間ほどの空白ができた。

 「校内で空手指導が継続するには、転勤などで空席とならない指導者の派遣と目標を持たせて継続につながる段位審査の導入が必要」と県警本部主席監察官・警視正、上地流拳優会8段の松崎賀充氏は考え事業化を働きかけた。

 

(松崎氏と校長の富山氏)

 

 県空手振興課の「平成31年度沖縄空手指導者派遣(県内普及促進)事業」(注釈②)を目にした松崎氏は、県警学校で空手指導が復活できるように課長の山川哲男氏に相談し、県警学校長で剣道7段の富山嘉津男氏の理解と協力を得て65日に空手の授業がスタートした。

 それから上地流拳優会の比嘉進先生を中心教官に、上地流の三戦と小手鍛え並びに普及型III等をベースとした短期生(大卒)と長期生(大卒以外)の稽古が始まった。

 ある教官は初めての稽古をみて、「ダメだな」と当時を思い返したが、稽古に励んだ短期生47人(内女子10名)の皆さんは、829日に、県空連会長で松林流範士10段の平良慶孝氏を含む9名の審査員の前で初めての初段審査に挑んだ。

 

 

 審査の内容は、基本動作、普及型III、三本組手、三戦、小手鍛え・下肢鍛え。3コートに分けられ全員、日ごろの稽古の成果を披露した。結果的に、47人中39人が合格した。

 

 

 

 柔道や剣道に比べて、県警において空手はまだ正課ではないから、「物足りない受講生は、落としていい」と松崎氏の指示を受けた審査員は厳しく評価し、県空連発行の初段の価値を見守った。

 審査会の講評で県連副会長・拳優会会長の新城清秀氏は、「力強い皆さんにとって、稽古時間が少なかったからか、立ち方等が未完成で合格できなかったものがいても、皆さん、逞しくそして痛みの分かる優しい警察官になっていただきたい」と述べて、審査会は終了した。

 それでも県警学校短期生は、6月から8月のわずか20時間だけで、立派に育った。不合格の数名は、また次回の審査に向けて頑張っていくことをその場に誓った。

 長期生は、12月まで、週1から2回のペースで空手を学び続ける。もちろん、剣道或いは柔道と逮捕術も必須であり、空手の稽古は、それに加えた鍛錬となる。

 「空手が琉球警察に導入されたのは大正7(1918)のこと。よくない悪に対して構えていくことを考えると、空手は助けになる。また喧嘩の分からない生徒たちに、小手・下肢鍛えやお腹を突く練習をすることで、痛みが分かり、動揺しなくなり、正しい判断ができる。鍛えることは自信にもつながる。県警学校に空手を導入したことに対し感謝致します」と松林流流祖・長嶺将真先生に師事した県空連平良会長は反省会の挨拶で述べた。

 「6月大阪で、巡査が刺された事件がありました。先手なしの空手で強い警察官を育てて欲しい」と富山校長はコメントした。

 今後とも警察学校生は、沖縄伝統空手の鍛錬を通して磨いた拳と心で、沖縄県民の安全安心を守ってゆく。

 

 

注釈①

 長嶺将真先生(19071997)は、1931年12月に沖縄県巡査を拝命し、最初の赴任先は沖縄中部の嘉手納署であった。2年間の在勤中に、喜屋武朝徳に師事した。その後東京警視庁へ研究巡査として派遣された時(1936年4月)半年余にわたり本部朝基に師事した。長嶺は永年勤めた警察官を退官し、19531月那覇市内に本格的な空手道場「松林流空手道興道館」を建設した。(参考:沖縄空手古武道辞典、長嶺空手道場ウェブサイト)。

 宮城長順先生(18881953年)は、1922年から沖縄県巡査教習所において武術の指導を開始した。1946年、具志川に開設された沖縄民警察学校の空手教育官に就任。(参考:沖縄空手古武道辞典)。

 宮里栄一先生(19221999年)は17才から那覇市松尾において宮城長順先生に師事。警察官時代から宮城長順先生を補佐し警察学校で指導された。(参考:沖縄剛柔流空手道協会ウェブサイト)

 米須清先生(1942~1980頃)は、上地完英先生に師事し、同系ある高段者によると「上地流の警察官と言えば当時はヒーローでした」。20代後半に退職し東京八王子で道場開設後に、下地康夫先生に譲って帰沖し、首里坂下で道場開設した。

 

注釈②

 沖縄県空手振興課「平成31年度沖縄空手指導者派遣(県内普及促進)事業」の事業概要は、下記の通りです。

  (1) 宮古地域及び八重山地域における講習会の開催

 宮古地域及び八重山地域に指導者を派遣し、地域の空手指導者や審判員を対象とした 講習会を開催する。 

  (2) 沖縄県内における沖縄空手の出張講習・実技指導

 沖縄空手の活用ニーズを有する団体へ空手指導者を派遣し、実技指導や沖縄空手の精神性及び歴史を学ぶ座学を含めたプログラムを実施する。

古武道⑤ 祖堅方範並びに城間大盛
2019.07.02

 

1961年1122

古武道⑤

 

祖堅〝松村〟の後継者

祖堅方範(70歳)

銷鎌

 

 明治二十四年西原村我謝に生まれる。現在少林流空手・古武術師範として門弟の指導にあたっている。

 祖堅さんが空手を始めたのは十二歳のとき、母カミーさんの兄松村さん(三代目・首里)から手ほどきを受けた。男の子が年ごろにもなってぶらぶらしていたんじゃろくな人間にはなれないと空手を仕込まれたというが、まだ子どもであった祖堅さんには当時のけい古はだいぶ苦しかったようだ。十二歳のとき親元を離れてから松村道場に住み込み、朝は門弟より早く起きてあさけい古、夜もおそくまでけい古をしたという。最初は軽いけい古であったが、上達するにしたがってゲタの脱ぎ方から逃げるけい古までやった。「空手に先手なし」といわれているように空手を修業するものは、「いかにして逃げるか」も研究しなければいけないと語っていた。

 沖縄全島の武術家を一堂に集めた演武会が大正十三年那覇の大正劇場で行なわれたといわれているが、祖堅さんも喜屋武朝徳(チャンミー小)本部朝祐(本部サールー)らとともに出演した。

 祖堅さんは武歴五十八年、その間宮古やアルゼンチンにも渡ったが武術に精進し戦後故郷の西原村我謝に松村先生の正統な後継者として少林流と名乗り、道場を開いた。

 今までに教えた弟子の数は約二百人。現在の約二十人の門弟が毎日けいこに励んでいる。こんどの発表会では鎖鎌を演武するが弟子からも六人出演する。

(現住所西原村我謝)

 

 

大屯棒を演ずる城間

城間大盛(77歳)

大屯棒

 

 明治十八年大里村字大城に生まれる。幼いころ、部落の祭りで青年たちが勇敢な姿で、棒術を演武するのを見て興味をもった。

 十七歳になって村で棒術を教えている普天間大越先生へかよいはじめた。運動神経に恵まれていたので先生も「君はきっとうまくなるよ」と、人一倍かわいがってくれた。それから終戦後の二、三年までつづけた。「年には勝てないもので、いまでは棒を振るのがやっとですよ・・・」と、若いときを思い出して、じれったい表情で語った。

 昭和三年、与那原国民学校で行われた今上天皇の後大典記念演武会で、演武したこともある。そのときの演武が唯一の思い出になっている。

 「部落の青年たちにも、棒術を習って体をきたえるようにといってきたが、今の若いのは棒なんて見向きもしない。いつでも一人で楽しめるし、いなかではもってこいの運動ですがね。こんどの公演でも部落の青年に分るのがいたら、若いのにさせるが、だれもいなくて困っている。私は大屯棒の手数だけ披露するのがやっとですよ」とひかえめに話している。

 長男の盛光さんには子供のときから教え、大屯棒を身につけているが、現在は静岡県の沢津市に住んでいるという。自分のむすこにはわがままがきくから、月夜には夜中に起こして、丘でよく教えた。

 「こんど古武道の発表会があって、私が大屯棒をやると手紙で知らせたら、むすこも喜んで体に気をつけてしっかりやるようにと激励している」と語り、そのあと床の間に置いてあった棒を取り出し〝大屯棒とはこんなものですよ〟と演武して見せた。

(現住所大里村字大城)

 

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