特集記事

古武道④ 兼島信助並びに知念正美
2019.06.08

 

【沖縄タイムス】19611121

古武道④

 

初公開のドーチン

兼島信助(64歳) 

ドーチン

 

 明治三十年与那原町に生まれる。二代目の町長で、現在は与那原町議会長である。忙しい議会活動のかたわら、尚武舘道場を開き、後輩の指導に余念がない。十五歳のときから、本部朝祐先生(本部サールの兄)らに指導をうけた。以来、五十年余りの空手道生活をつづけている。今度の発表会ではドーチンを演ずる。

 ドーチンは沖縄で未公開の型で、初めて披露されるわけだ。兼島氏の奥技の一つに数えられ、十七歳のころ台湾へ渡り、陳判同先生から教わったという。

 空手道ひと筋に打ち込んできた人だけあって、公演をまえに意欲と自信に満ちた表情を見せている。とくに古武道の保存に力を入れ、比嘉会長と共に、古武道界の権威者を集めるのに東西奔走、古武道復活の推進力となっている。

 「郷土の古武道が滅んで行くのを見ると、寂しくてたまらない。権威者がなくなって復活できないのもある。こんどの公演で権威者が演ずる型をフィルムに収めて、保存するつもりです。郷土をになう若い人たちを、古武道で豊かな精神と、健康な体をもった人に育てたい・・・」と、抱負を語っている。

 しらがまじりで薄くなった頭髪だけが老年を思わせるが、キビキビとした動作、話すのも活気にあふれている。空手を体得してから、病気になったことは一度もないというがっちりした体格で、初めて公開されるドーチンをやって見せた。「息切れしてぜんぜんですね」と、汗をふきながら、空手道がいかに立派な体と精神をつくるかを、説明した。

(与那原町森下区三五)

 

 

祖父に棒術を習う

知念正美(63歳) 

佐久川のコン

 

 祖父三郎さんから佐久川のコン(棒術)を直伝された。

 「佐久川のコン」は支那からつたわってきたといわれ、沖縄にその使い手は少ない。知念さんは十七歳のときからけい古をはじめた。子どものときは弟(正昌さん)といっしょに空手をならっていたが、けい古のムリがたたって棒に転向した。その理由は空手を休んでいる間に弟の正昌さんが上達したからだという。弟に負けたくやしさに一時は武術をあきらめたというが、祖父のすすめで棒術を始めた。知念さんの祖父三郎さんは棒の使い手として知られ、三郎さんの技を「ヤマンニーの型」といわれていた。

 佐久川のコンも祖父三郎さんの特技の一つ。打つと見せかけてつき、つくときは、棒をひねりながらつくというふうに、他の棒術とは多少違う。知念さんは祖父から手ほどきをうけ、佐久川のコンの正統な跡継ぎとしてこんどの演武会は佐久川のコンの演武をするが、「棒術は祖父の生涯をかけた武術であり、祖父の型をのこす意味でもこんどの演武会はがんばりたい」と語っていた。佐久川のコンは真玉橋の嘉数部落にのこっているが、今は忘れられた武術として使い手は少なく、わずかに古老たちに受け継がれているだけである。

 知念さんはこんどの発表会いあたって「比嘉会長のよき相談相手になり、こんごも古武術のためにつくしたい」と語っていた。

 

沖縄伝統古武道保存会文武館が公開した当時の動画:

https://www.youtube.com/watch?v=6YSyJjtBwMk&feature=share&fbclid=IwAR3z6GeXqOLPaHW0dENUElSG96gIFABih-YXSUY0YsJQWTCbcVTiyvBD4T8

 

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古武道③ 中村茂並びに比嘉勇助 
2019.06.01

 

【沖縄タイムス】19611117

古武道③

 

チャンミー小らと修業

中村茂(67歳)

ニセシ

 

 明治二十七年名護町に生まれる。十五歳のとき沖縄県立中学校に入学、空手部に入部して空手を習い始めた。中村さんは子どものときから空手に非常に興味を持ち、おじいさんや先輩たちから武勇伝を聞いたという。そのため人一倍熱心で空手の上達も早かった。こんどの発表会では「ニセシ」を演武するがこれは通称〝国吉のタンメー〟から習ったもの。型としてはそれほど変化はないが沖縄に使い手は少なく貴重な技とされている。中村さんは昔チャンミー小や本部サールーといっしょに空手の修業をしたというだけあって根からの空手マン。空手のほかに棒術、サイなども心得ている。

 しかし、五十余年の武術生活にはいろいろな苦難があった。寒い冬の夜道をけい古にかよったり、旅回りをして空手の修業をしたという。そのような苦労が中村さんのひととなりをつくり何事にも屈しない不とう不屈の精神力を養ったようだ。いま自宅で道場を開いており弟子の数は千人にのぼるという。

 現在、沖縄の空手には、いろいろな流派があるが、中村さんは「昔は空手に流派はなかった。沖縄の空手を発展させるには各流派を統一しなければいけない」と語っていた。

 中村さんの道場には「人格完成」と大書した額がかかげられており、門弟たちも師の教えにしたがって日夜けいこに励んでいる。

(名護町489番地にすむ)

 

 

親子でテンベーを演武

比嘉勇助(70歳)

テンベー

 

 古武道が忘れられて行き、今では〝テンベー〟を演じうるのは、比嘉さんだけである。テンベーの保存につくす比嘉さんの役目は大きい。「テンベーが滅ぶのではないかと、心細い思いをしていた。こんど古武道関係者がテンベーを復活すると話していますので、喜んでいる。テンベーのできる人が、みんななくなって、惜しまれてならない。私は年をとっていますが、曲がりなりにもテンベーを演じたい・・・」と、意欲を見せている。

 テンベーとはかさと刀を持つ人とヤリを持つ人との戦いである。公演では比嘉さんがかさと刀を持つ人になり、五男の勇福さんがヤリの使い手を演ずる。親子意気の合ったコンビでテンベーの復活につとめるわけだ。とくにかさと刀の使い手は、相手の上を自由自在に飛ばなければいけない。人の上を飛ぶむずかしい役があるから、テンベーはあまり普及されないといわれている。「僕が若いころは、君らの上を飛ぶのは、なんでもなかった」と、飛ぶようなマネをしながら方言で語った。がっちりと肉のひきしまった小柄なタイプで、たしかに若いころは人の上を自由自在に飛んだろうと、思わせる元気なおじいさんである。

 明治二十四年知念村久手堅に生まれ、明治四十四年大分歩兵七二連隊に入った。大正二年に除隊した。除隊後二十四歳のとき首里の新垣先生に指導をうけたという。歩兵隊でのきびしい訓練が、テンベーを習うのに大いに役立ち、習得するのが早かった。新垣先生のなきあとは、知念、玉城、佐敷の青年に指導したが、苦しい試練がともなうので、みんなあきらめてしまって、相手になるのは息子の勇福さんだけである。いそがしい畑仕事のかたわら、比嘉さんはテンベーの公演を目ざして、張り切っている。

 

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古武道② 伊礼松太郎並びに仲村平三郎
2019.05.24

【沖縄タイムス】19611116

古武道②

 

目を忍んでけい古

伊礼松太郎(82歳)

銷鎌

 

 鎖鎌の使い手で最も年長者、十九歳から習い始めたというからもう六十余年の武歴の持ち主である。銷鎌は農村で発生した武術で、身近な鎖やカマを武器にしてあみだされた。そのため型は一定せず、地方によっていろいろな型がある。伊礼さんは越来に住み安里のタンメーから鎌の手ほどきをうけたというが、その動機は単純なもの。「兵隊を志願していたので、本土にいけばバカにされてはいけないから」だという。また当時農村では空手とか鎌を習う人は野蛮人とか乱暴者としてきらわれ妻のさがせないほど敬遠されたようだ。そのためほとんどの人が人目を忍んで夜けいこに通い武術を習った。最初は空手からけいこに入り、腕をあげるにしたがってサイ、棒、カマといろいろな技を身につけ、二十五歳のとき初めて村芝居で空手、鎖鎌を披露、三十一歳のとき弟子十二人といっしょに大演武会を開いた。

 「芸は身を助く」といわれているが、伊礼さんも武術を心得ているためいろいろな災難を克服できたという。それは身を守ることだけではなく、苦しさに耐え忍ぶ精神力も自然に養われた。

 現在沖縄の古武術、とくに鎌は使い手も少なく滅びつつあるが、伊礼さんはカマを志して習いにくる人にはだれにでも心よく教えている。こんどの演武会は沖縄の古武術の大家が一堂に集まってそれぞれの奥義を披露し、古武術を普及するのがその趣旨だが、伊礼さんは孫の富田信幸さん(24歳)にサイやカマなどを教えている。

 

 

学生時代、空手に親しむ

仲村平三郎(68歳)

チソーチン

 

 明治二十六年本部町字渡久地に生まれる。十七歳のころから空手に親しみ、今日まで精神の修養と健康法としてつづけてきた。発表会ではチソーチンの型を演武するが、これは学生時代に名護町の武士国吉(通称)から手ほどきをうけたという。師範時代(1)には屋部健通先生の指導をうけた。「空手はからだづくりと精神をきたえるのに、いい運動である・・・」と空手のよさについて静かな口調で語る。よっぽどの空手好きで、師範学校を出てから五七年まで教員生活を送ってきたが、中村さんが赴任する学校では、生徒に空手を指導、とくに上級生にはピンアンや組み手などを教え、運動会の種目の中に取り入れた。五七年本部小学校の校長を退任。現在本部区教育委員長である。

 感じのいい人で、空手で鍛えた均整のとれた姿は、年よりずっと若く見える。教員生活のころは生徒たちから親しまれたことだろう。初の発表会に出演するとあって、新しい空手着を求めて、あさけい古に余念がない。「みんなのまえで演武しますので、いいかげんなことはできませんからね。けい古をやっているのですが、どうも年で、うまくやれるか心配ですよ」と、ひかえ目に語っているが、どうして、なかなか迫力のなる空手を見せている。カメラを向けチソーチンを演武してもらったら、真剣な表情でまだまだ健在なところを見せた。関節のなる音や身軽な体さばきは、平素のおとなしい顔と違い、威厳な感じをただよわせていた。

 

(1)沖縄師範学校

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古武道① 喜納昌盛と新城平三郎
2019.05.14

 

【沖縄タイムス】19611115

古武道① 

沖縄古武道協会(会長比嘉清徳氏)では文化財保護委員会、琉球新報社、沖縄タイムス社の後援で26日午後1時から那覇劇場で初の発表会を開く。これは滅び行く郷土の古武道を復活させようというもので、全島各地から50人余の権威者が参加し、棒、サイ、鎌、ヌンチャク、テンペ―など、60余種目を演武する。83歳の野原浦一翁(東風平村)の高齢者から24歳の年少者までまじえ、発表会にそなえて張り切っているが、そこで主なる出演者の横顔を紹介しよう。

 

筑佐事から直伝

喜納昌盛氏(79歳)

サイ

 

 「サイ」は昔 筑佐事(捕吏)が携行して王様の護衛や群衆の整理、または犯人を捕まえるために使用したもので本土の十手に似ている。

 喜納さんがサイを始めたのは十八歳のとき、村の先輩や友人から手ほどきを受けた。喜納さんの出身地島袋(コザ市)は非常にサイが盛んで、一種の護身術として村の青年たちに普及されていたという。しかしこれらはいずれも自己流筑佐事のまねをして習得したものであったようだ。

 現在沖縄にサイの使い手はたくさんいるが、流派はなく型が統一されていない。喜納さんのサイは首里城に使えていた筑佐事の大筑(役名)から直伝されたので、いわゆる正統派ということになる。サイは「打つ、受ける、つく、打ち落とす」のが主で、護身のための武術である。喜納さんは「天の下で悪いことはできない。サイに先手なし」と弟子に教えていると語っていたが、三十二年間教職につき、またクリスチャンとして静かな余生をおくっている。弟子には喜屋武真栄、泉川寛徳、喜納昌伸さんなどサイの使い手として知られている人がいる。「もう八十歳になるおじいさんだよ」と喜納さんは大きな声で笑っていたが、サイを使う手さばきは鋭く、こんどの那覇劇場での発表会は生涯をかけて習得したサイの技と奥手を紹介したいと語っていた。明治十五年生まれ。 

 

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南京で〝術〟を修業

新城平三郎氏(47歳)

空手術

 

 大正三年読谷村字宇座に生まれる。父が空手の好きな人だったので、小さいころから空手に親しんだ。十七歳のとき父の勧めで中国(南京)へ渡り、官明先生の道場で空手術の修業をした。空手は武器や芸でもない。精神の鍛練が目的である。空手術・・・〝術〟というのは精神の修養を意味するものだと、話している。発表会では八番線(針金)を腕に通すことになっている。細い火ばしのようなもので、空手で気合をかけ、一気に腕を通してしまう。一滴の血も出ないし、何の痛みも感じない、というから人間わざとは思えない術である。

 この術を習得するには、よっぽどの精神の修養を積み、六年間も没頭した。空手で鍛えたがっちりした体格、盛り盛りとした筋肉が、鍛錬の苦しかったことを物語っている。

 戦後、本土(鹿児島)に引き揚げたが、高松宮殿下が鹿児島へおいでになったとき、歓迎会で空手術を披露した。今までに十八回、八番線を通したが、高松宮殿下の歓迎会でやったのが、一番印象が深く、陛下も不思議がって、痛くはないかと労をねぎらわれたという。

 術をかけ針金を通してしまえばそれまでだが、精神統一を行い、術をかけるときの神経と体力の疲労はなみたいていなものではないという。「こんど久しぶりに公開できるので喜んでいます。その日の術のかかりぐあいがうまくできるか、できないかの分れ目になる。沖縄では私だけしかできない空手術だといって、古武道協会が推せんしていますので、ぜひしっかりやらねば・・・」と、八番線を手にしてはりきっている。現在那覇市西武門で製靴店を営んでいる。

 

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「刀狩り」に疑問
2019.04.08

 2019年37日・8日琉球新報には、『よくわかる沖縄の歴史-社会変化を読み解く-第8話、尚真の時代は「黄金時代」か』①と②という文化コラムが掲載された。執筆者は、1941年那覇市生まれ、沖縄史学者・農学者、沖縄国際大学名誉教授の来間泰男氏。

 氏の記事では、沖縄空手歴史によく出てくる尚真王時代の「刀狩」について意見が述べられています。下記に、来間氏のコラムの一部を引用します。

 

《・・・・・・》

 まず、正史の中でも最もくわしい【尚真の業績-『球陽』】の記述を紹介する。球陽研究会編『球陽』読み下し編に33の項目があり、その4番目は下記の様に記述がある。《・・・・・・》

④刀剣や弓矢などを蔵にしまって護国のために備えた。

《・・・・・・》

 次に、【百浦添欄干の銘】について記述する。《・・・・・・》現物は残っておらず、撰者も不明だが、漢文で書かれたこの銘文は『琉球国碑文記』に記載されている。その内容は尚真王の功績をたたえたもので、11項目が列挙してある。そのうちのいくつかは『球陽』にも取り上げられていた。《・・・・・・》

刀剣弓矢の類は収容して、もっぱら護国利器とした。

 

武器は放棄されたか

 

 ④とⓔから、これまで、首里王府自体が武器を放棄したかのような理解が見られたが、そうではなかったことが、多くの研究者によって指摘されている。これは、王府の武器放棄ではなく、王府によって武器が一手に掌握されたことを述べているのである。語句の解釈としてはそれでいい。

 武器を回収したから「刀狩」だとする者もいる。日本史の上での「刀狩」との区別を明確にしておかなければ、誤解を招くことになるだろう。日本史では、豊臣秀吉の時代に刀狩があったが、それは武士から回収したのではなく、百姓(農民)から回収して、身分の区別をはっきりさせたのだった。琉球の場合は、「武士」とみなされている「按司」から回収したというのである。

 それでは、本当に、按司たちから武器を回収したのだろうか。もともと組織的な武力集団のいなかった琉球である。武器は、多少はあっただろうが、按司たちにとって重要な物ではないかと思われる。実態として武器が備えられていないということを見て、そのことを尚真の功績として書き上げたものではないだろうか。《・・・・・・》