1522年宮古の仲宗根豊見親から献上された宝剣は王様の守刀として治金丸(1)と命名された。
京阿波根実基(生没年不詳)は、尚真王の命を受けて宝剣を研ぎ師に鑑定させるために京都へ行くことになった。京都で研ぎ師に鑑定してもらい、無事任務を果たし宝剣を王府に持ち帰った。
しかし、持ち帰った宝剣は研ぎ師によって取り替えられていたことが判明した。治金丸は京都の研ぎ師を唸らせるほどの名刀だった。持ち帰った宝剣が偽物であることが判明し、再び京阿波根は京都に赴くことになった。3年間探し続けた結果、やっと宝剣を発見し、無事持ち帰ることに成功した。
王は大いに喜び、京阿波根にたくさんの褒美を与えた。京阿波根の武勇の名声はますます高まっていった。名声が高まれば高まるほど、名声をねたむ者も現れ、ついに王の耳にはいることになったが、王はあえて世間の讒言に取り合いませんでした。ある日、京阿波根を朝廷に招き入れて歓談し、茶をすすめた。しばらくして童子がその隙を見て進み寄り匕首で京阿波根を刺した。
このときの状況は『球陽』に記述され、文中に「童子の股を空手で打破した」とあり、武術として空手が研究されていたかどうかは不明だが、このころすでに中国人が久米村に帰化しており、また、1372年より始まった朝貢貿易が活発に行われているところから、手(ティー)に中国武術の影響がすでにあったことも考えられ、興味深い記録である。
なお、京阿波根に関連する記事は『球陽下巻 遺老説伝』、『琉球国由来記』(1713年)、『琉球国旧記』(1731年)にも関連記事がある。
歴史的な人物である京阿波根実基が、手の使い手であったことは不明です。しかし氏の墓は現在も、首里城下を見守っております。墓は、首里寒川にある美連嶽の裏にあります。
参考文献:沖縄空手の定本(津波清著・NPO法人沖縄空手道・古武道支援センター発注)
(1)おそらく、尚眞王のことです。なお治金丸は、那覇市歴史博物館に保管されている。写真はこちらへ
http://www.rekishi-archive.city.naha.okinawa.jp/archives/item1/2059
第一回沖縄空手国際大会の前夜として7月28日・29日、首里手と小林流が顕彰される。 今年は、首里出身で佐久川の棍創始者・唐手(とーでー)佐久川寛賀翁生誕232年を迎えます。
28日(土)は、県指定無形文化財保持者の仲本政博先生を先頭に、空手・古武術首里手発祥の地顕彰碑が除幕される。会場は、那覇市首里にある崎山公園(旧テレビ塔跡)。除幕式は午前11時に行います。除幕式、祝賀会、演武と旗頭が予定されています。
29日(日)は、沖縄小林流空手道協会の宮城驍先生を先頭に、小林流開祖拳聖知花朝信顕彰碑が完成し除幕式が行われます。会場は、那覇市首里山川町公民館広場。式典は午前10時~12時を予定しています。
(左、崎山公園の顕彰碑。右、山川町公民館広場)
5月24日琉球新報に、「よくわかる沖縄の歴史~社会変化を読み解く~第3話 按司は武士なのか①」という文化コラムが掲載された。執筆者は、1941年那覇市生まれ、沖縄史学者・農学者、沖縄国際大学名誉教授の来間泰男氏。
氏の記事では、沖縄空手界でよく使われている「武士・サムレー・士族」という言葉がわかりやすく説明された。下記、来間氏のコラムの一部を引用します。
来間氏によると、沖縄史には戦いそのものがほとんどない。そして、武士は出てこない。按司という、それらしい者がいるので、これを武士だと思っている人もいるが、按司は武士ではない。武士は、日本史で武士が生まれたが、中国や朝鮮の歴史に出てこない。沖縄にも「ぶし」、「サムレー」と「士族」という言葉がある。それでも、沖縄には武士はいなかった。
【沖縄語の「ぶし」】
沖縄では「ぶし」という言葉自体が違った意味を持っている。それは「力の強い者」ということである。
国立国語研究所編『沖縄語辞典』には、「達人。武芸・唐手などのすぐれた者、大力のある者などをいう」とあり、「武士の転意」と補足されている。
言語的には日本の「武士」という語を引き写しながら、それを同じ意味ではなく、「天意」して(意味を変えて)使っているのである。
言葉だけをみても、日本史の武士と、沖縄の「ぶし」は異なっているのである。
【サムレー】
近世になると「士」が現われる。これは「シ」ではなく「サムレー」と読む。東恩納寛惇「旧琉球の階級制度」(1909年)および同『琉球の歴史』(57年)による。これは日本語の「さむらい」に通ずる言葉だが、これを武士と取り違えてはならない。
日本史では、武士の登場以前に、「さぶらう」(候ふ/侍ふ)といわれた人びとがあった。かれらは、天皇や貴族のもとに「さぶらう」、つまり「じっとそばで見守り待機する」人びとである。中には武力をもっている者もいた。武官である。それがのちの「武士=侍(さむらい)」につながっていった。しかし、沖縄の「サムレー」は武装していないので、これらとは異なる。琉球の近世では、王府に勤めている人びと(いわば文官)のことを「サムレー」と言ったのである。
士族は明治以降
近代になると「士族」が現れる。これは、明治維新後に「族称」の一つとして初めて使われるようになったものである。族称には「華族」「士族」「平民」があった。以前の武士身分が「士族」とされたのである。もっと言えば、時代が変わって、武士でなくなった者を「士族」としたのである。そして、琉球の「士(サムレー)」も同じく「士族」とされた。このことを指摘することなしに、「士族」という用語を使うのは誤解のもとになる。
4月21日、沖縄伝統空手三大流派の一つ「上地流」流祖・上地完文(1877~1948年)の銅像除幕式が流祖の生誕地である本部町の八重岳「桜の森公園」内で500名余りのが参加のもと厳かにとりおこなわれたした。写真で歴史的のその日を振り返ります。