沖縄空手・古武道の型
2018.02.05

 標準型の確認と許容範囲の学習を目的として、第一回沖縄空手国際大会の実行委員会は空手の型133本、棒術28本、サイ術17本の型の動画を順次公開しております。
  
以下より御覧ください。
  https://okinawa-karate.okinawa/kata-movie/

松茂良興作の足跡を歩く
2017.12.26

 

 泊港は、その昔、首里王府の貿易港として栄えた。特に中山王府樹立後は、泊村が海外からの玄関口として諸外国との交流がさかんになり、泊村の人達の中から、漢学、芸能、音楽、武術等、種々の分野で活躍する大家が誕生した。

 泊港に上陸した外国人は、泊の聖現寺(俗称天久の寺)の境内に、種々の物資を陸揚げし、この寺が、彼らの琉球滞在中の活動の拠点となったと言われている。中には、中国、朝鮮等の交易船が漂着することもあった。泊の人達は、漂着者の中にいる武人から武術の伝授を受け、首里、那覇とは変わった独特の泊手が誕生したといわれている。

 泊手は、照屋規箴(18041864年)と宇久嘉隆(18001850年)に始まる。この両師に師事し、後に照屋師の後を継いだのが、松茂良興作(18291898年)である。松茂良は、泊手を、首里手、那覇手と並び称されるまでに武術を高めた人で、後世、泊手中興の祖といわれた。

 現在沖縄県には、松茂良興作に関連するゆかりの地や記念碑が六ケ所ある。

 那覇市内には、松茂良興作の顕彰碑カーミヌヤー洞窟武士松茂良のリリーフがある。

 この洞窟について、孫にあたる松村(旧姓松茂良)興勝氏の著書『空手(泊手)中興の祖 松茂良興作略伝』には次のように書かれている。

 興作は、宇久嘉隆と照屋規箴より空手の手の手解きを受けて後、「興作は泊浜の『カーミヌヤー』という洞窟に住んでいた中国人【一説には琉球人が王府に身元を秘すため中国人に扮していたといわれているがいずれにしろ真相は不明】に空手の教えを乞うた。一旦は断られたが興作のたっての熱望により教授することになり・・・」と記述されている。

 恩納村には、松茂良が追い剥ぎを押さえたフェーレ岩とおがある。

 最後は、名護市に位置する松茂良興作隠棲屋敷跡があります。このことについて、那覇市泊にある新屋敷公園の顕彰碑にも次の様に刻まれている。「後難を慮れ一時名護村に身を隠した」と。松村興勝氏の書籍にも同様のことが述べられている。

 泊手中興の祖として歴史に刻まれた松茂良興作は、武士としてだけではなく、人のため世のために生きるを心とし、真の武人として沖縄人の心に永遠に生きつづけるでしょう。そのことは、顕彰碑にも記されおり、それを下記に引用する。

 「泊村には昔から琉球王府よりの共有財産の外に王府の科挙に合格して官吏に登用された山里朝賢翁が泊村住民の福祉のために寄贈された内輪御持(共有財産)があった。

 明治12年廃藩置県の際日本官吏が其の財産迄引き揚げるべく策を計ったが松茂良興作外泊の武人の身命を賭した気概に断念しこの浄財は今尚泊先覚顕彰会の基金に活用されている。我々は破邪顕正の道を貫いた拳聖松茂良の名を永遠に残す。」

 

 

参考資料:空手道・古武道基本調査報告書、沖縄県教育委員会、松村興勝著『武士 松茂良興作略伝』(1970年発行)

那覇市久米にある「クニンダテラス」
2017.11.13

 

 沖縄県と中国・福建省は19979月に友好県省を締結しまし、今年で20周年になります。

 記念事業として、沖縄県は訪問団を派遣しました。119日から13日の日程で、知事を団長とする空手演武者を含む総勢73名の派遣訪問団が中国にわたり、記念植樹と記念式典などに参加しました。(上記の写真は、空手古武道訪問団の皆様)

 

 那覇市の松山公園には、東恩納と宮城の顕彰碑があり、近くには、久米村発祥地の碑(上記写真)もあります。また公園向かいの福州園周辺にも多くのゆかりの地があり、福州園隣りにあるクニンダテラスにはたくさんの関連情報情が紹介され、周辺の散策マップも配付しています。許可を得て紹介します。

散策マップ  説明面

 

 那覇手・剛柔流を愛好する者にとって興味深いところです。ぜひ足を運んでください。

 

松村宗昆の遺墨
2017.10.20

 

 沖縄空手会館資料室には、松村宗昆(1)の遺墨「人常敬恭 則心常光明也」が展示されています。

 この掛軸は、1987年発行宮城篤正著『空手の歴史』(おきなわ文庫)に紹介されており、資料室の作品は、実物をもとに複製されたものです。

 この文は、中国の儒学者 朱子の問答録である『朱子語類』からの引用と思われます。

 宮城氏は「武士松村も文武両道に秀でた武人として知られ、ここに掲載する遺墨はまさにそのことを証明するにふさわしい好資料である。読みは『人、常に敬恭なれば、則ち心は常に光明なり』である。宗昆七十六歳のときに書いたもので、筆力や語句などからいかにも武人らしい作品である。」と紹介しています。

 号「雲勇」、もしくは「武長」と称した松村宗昆のこの素晴らしい遺墨の右側にある「常」の字が特に美しく書かれており、古武術の釵(さい)或いは簪(ジーファー)が回転するかのように思えます。

 ぜひ、沖縄空手会館を訪れ、空手中興の祖(2)こと松村宗昆の書をご鑑賞ください。

 

(1)松村宗昆の「昆」は「棍」とも書きますが、この遺墨では「昆」と明記されています。

(2)空手の中興の祖として、松村宗昆(首里手)、松茂良興作(泊手)、東恩納寛量(那覇手)がいる。

 

写真提供 : 沖縄県空手振興課・沖縄空手会館

沖縄師範学校で空手と棒術の演武
2017.10.14

 1925年には、秩父宮殿下の前で空手が演じられた。しかし、空手だけではなかった。前川棒、かつて稽古場であった洞窟などについて新たな記事を更新しました。