糸洲安恒~写真の再検証
2019.03.04

 31日、沖縄県庁内で、沖縄県空手振興課主催の「沖縄空手アカデミー」の発表が行われました。空手関係者約30名が参加しました。

 第三回になるこの開催のテーマは、「『糸洲安恒』写真の再検証-同時代史料による裏付けの重要性について-」でした。検証と発表を行ったのは、同課空手関係学芸業務補助員の仲村顕氏です。今回、その発表の内容を要約・抜粋して紹介します。後日、発表の特集記事をこの案内センターのウェブサイトで紹介する予定です。こうご期待。

 2006年に、沖縄タイムスで『伝説の空手家 写真発見』という見出しの記事が掲載されました。沖縄空手に大きな足跡を残した、「糸洲安恒(1831-1915)の写真発見」を報じる記事でした。以降この写真は糸洲安恒の写真として多く使用されましたが、近年新たに見つかった史料等をもとに再検証がなされました。

 ところで、2006年沖縄タイムスに報じられた写真には、徳田安貞氏が写っています。徳田氏は、1910年に沖縄県中学校(のちの沖縄県立第一中学校)を卒業しています。当時の中学校は5年学期制度でしたので、この写真は、1905年~1910年のものであることが解ります。

 仲村氏は、同時代史料を検証・調査するなかで、琉球大学附属図書館に保管されている資料、師範学校の雑誌『龍潭』第9号(1911年発行)所載の2点の口絵写真を発掘しました。

 下記一点参照:タイトルは「本校職員と43年度一部の卒業生」となっています。左側;写真保護紙に記述された参加者の役職及び苗字。右側;実際の写真です。この資料の出所・提供元は、琉球大学附属図書館です。

 

 

 

 両写真に、2列目右端に、糸洲安恒と思われていた人物が紹介され、そして、そのもう片ページの名簿表には「三宅先生」と紹介されています。

 今まで糸洲安恒と思われた人物は、1847年生まれの宮崎県出身士族、三宅三五氏で、沖縄警察撃剣教師や沖縄県師範学校そして沖縄県中学校(のちの一中)撃剣指導教師(官)を務めていた方であることが解ります。

 なお、2006年に沖縄タイムス紙面で発表された写真は、一部が欠損した集合写真であり、完全版なるものではないことも解ります。

 徳田安貞氏のアルバムから写真を入手した新崎盛敏氏は、「この写真の中にイチジ(糸洲)のタンメー(おじいさん)がいるよ」という証言を残しています。もしかして、欠損部分に糸洲安恒の姿を見るかも・・・?

 今後とも、更なる浪漫が、空手愛好家にもたらされるでしょう。

 

 注釈:この記事は、沖縄県空手振興課の監修のもと掲載しています。

(敬称略)

首里手と小林流の顕彰
2018.07.23

 第一回沖縄空手国際大会の前夜として7月28日・29日、首里手と小林流が顕彰される。 今年は、首里出身で佐久川の棍創始者・唐手(とーでー)佐久川寛賀翁生誕232年を迎えます。

 28日(土)は、県指定無形文化財保持者の仲本政博先生を先頭に、空手・古武術首里手発祥の地顕彰碑が除幕される。会場は、那覇市首里にある崎山公園(旧テレビ塔跡)。除幕式は午前11時に行います。除幕式、祝賀会、演武と旗頭が予定されています。

 29日(日)は、沖縄小林流空手道協会の宮城驍先生を先頭に、小林流開祖拳聖知花朝信顕彰碑が完成し除幕式が行われます。会場は、那覇市首里山川町公民館広場。式典は午前10時~12時を予定しています。

 

 

(左、崎山公園の顕彰碑。右、山川町公民館広場)

松茂良興作の足跡を歩く
2017.12.26

 

 泊港は、その昔、首里王府の貿易港として栄えた。特に中山王府樹立後は、泊村が海外からの玄関口として諸外国との交流がさかんになり、泊村の人達の中から、漢学、芸能、音楽、武術等、種々の分野で活躍する大家が誕生した。

 泊港に上陸した外国人は、泊の聖現寺(俗称天久の寺)の境内に、種々の物資を陸揚げし、この寺が、彼らの琉球滞在中の活動の拠点となったと言われている。中には、中国、朝鮮等の交易船が漂着することもあった。泊の人達は、漂着者の中にいる武人から武術の伝授を受け、首里、那覇とは変わった独特の泊手が誕生したといわれている。

 泊手は、照屋規箴(18041864年)と宇久嘉隆(18001850年)に始まる。この両師に師事し、後に照屋師の後を継いだのが、松茂良興作(18291898年)である。松茂良は、泊手を、首里手、那覇手と並び称されるまでに武術を高めた人で、後世、泊手中興の祖といわれた。

 現在沖縄県には、松茂良興作に関連するゆかりの地や記念碑が六ケ所ある。

 那覇市内には、松茂良興作の顕彰碑カーミヌヤー洞窟武士松茂良のリリーフがある。

 この洞窟について、孫にあたる松村(旧姓松茂良)興勝氏の著書『空手(泊手)中興の祖 松茂良興作略伝』には次のように書かれている。

 興作は、宇久嘉隆と照屋規箴より空手の手の手解きを受けて後、「興作は泊浜の『カーミヌヤー』という洞窟に住んでいた中国人【一説には琉球人が王府に身元を秘すため中国人に扮していたといわれているがいずれにしろ真相は不明】に空手の教えを乞うた。一旦は断られたが興作のたっての熱望により教授することになり・・・」と記述されている。

 恩納村には、松茂良が追い剥ぎを押さえたフェーレ岩とおがある。

 最後は、名護市に位置する松茂良興作隠棲屋敷跡があります。このことについて、那覇市泊にある新屋敷公園の顕彰碑にも次の様に刻まれている。「後難を慮れ一時名護村に身を隠した」と。松村興勝氏の書籍にも同様のことが述べられている。

 泊手中興の祖として歴史に刻まれた松茂良興作は、武士としてだけではなく、人のため世のために生きるを心とし、真の武人として沖縄人の心に永遠に生きつづけるでしょう。そのことは、顕彰碑にも記されおり、それを下記に引用する。

 「泊村には昔から琉球王府よりの共有財産の外に王府の科挙に合格して官吏に登用された山里朝賢翁が泊村住民の福祉のために寄贈された内輪御持(共有財産)があった。

 明治12年廃藩置県の際日本官吏が其の財産迄引き揚げるべく策を計ったが松茂良興作外泊の武人の身命を賭した気概に断念しこの浄財は今尚泊先覚顕彰会の基金に活用されている。我々は破邪顕正の道を貫いた拳聖松茂良の名を永遠に残す。」

 

 

参考資料:空手道・古武道基本調査報告書、沖縄県教育委員会、松村興勝著『武士 松茂良興作略伝』(1970年発行)

松村宗昆の遺墨
2017.10.20

 

 沖縄空手会館資料室には、松村宗昆(1)の遺墨「人常敬恭 則心常光明也」が展示されています。

 この掛軸は、1987年発行宮城篤正著『空手の歴史』(おきなわ文庫)に紹介されており、資料室の作品は、実物をもとに複製されたものです。

 この文は、中国の儒学者 朱子の問答録である『朱子語類』からの引用と思われます。

 宮城氏は「武士松村も文武両道に秀でた武人として知られ、ここに掲載する遺墨はまさにそのことを証明するにふさわしい好資料である。読みは『人、常に敬恭なれば、則ち心は常に光明なり』である。宗昆七十六歳のときに書いたもので、筆力や語句などからいかにも武人らしい作品である。」と紹介しています。

 号「雲勇」、もしくは「武長」と称した松村宗昆のこの素晴らしい遺墨の右側にある「常」の字が特に美しく書かれており、古武術の釵(さい)或いは簪(ジーファー)が回転するかのように思えます。

 ぜひ、沖縄空手会館を訪れ、空手中興の祖(2)こと松村宗昆の書をご鑑賞ください。

 

(1)松村宗昆の「昆」は「棍」とも書きますが、この遺墨では「昆」と明記されています。

(2)空手の中興の祖として、松村宗昆(首里手)、松茂良興作(泊手)、東恩納寛量(那覇手)がいる。

 

写真提供 : 沖縄県空手振興課・沖縄空手会館