特集記事

礼について(パートI、摩文仁賢栄)
2020.10.05

全空連中央資格審査員

摩文仁賢栄

 

 あらゆる武道、スポーツに、また、日常生活において最も大切なことの一つに礼というものがある。

それは空手道においても同じで、最も大切なことであり、最初に学ばなければならないことである。礼は、単に形式的に頭を下げるだけではなく、先づ自分の心を正して相手に向かい、姿勢を正して礼を行うものである。

 礼について思い出すことだが、われわれ日本人同志なら問題はないが、外国人でこの事で考えさせられたことがあった。

 中南米のある道場で、稽古の初めに行う礼をするために、幹部並びに生徒一同整列し「正坐」の号令で全員正坐「礼」と、ここまでは立派で良かったのだが、肝心の「礼」が悪かった。全員膝の上に両手をのせたままで、頭をかるく前に倒すだけであった。生徒は皆熱心で立派な人達なので、不審に思い、幹部に尋ねたところ、前に指導に当たっていた、日本人の先生がこのような形で生徒の礼を受けていた事が分かった。教える方も、習う方も先づ心を正しておれば決してこのような礼の仕方はしなかったと思う。

 これもある都市でのこと、この土地の大学の学生達と体育館で空手の演武会を開催することになった。会場は早くから観衆がやってきて超満員だった。わらわれが演武する場所もせまく、観衆もわれわれとその距離は二メートル位しかはなれていなかった。最前列には婦人方がずらりと椅子に腰掛けておられた。このままいつものように正坐して正面に「礼」をすることになると、どうしても、そのご婦人方に最敬礼をすることになる。どうも恰好が悪い。私はその時、私が正面に立ち私と生徒の相互間の礼を行う形にした。

 礼も、習慣上、形式的にやるのではなく、時には場所により、方法も一考すべきと思った。

 空手道の型の演武の中に礼を現わした動作も幾つかある。これは慢心を戒めたもので、大勢の面前で演武する際、わが師、先輩方、私の拙い演武を見て、今後共ご指導をお願いしますということを動作で現わしているのである。空手道の教訓に「空手に先手なし」「君子の拳」とあるが、これは無音に拳足をふるい、人を傷つけてはならない、常に紳士としての態度で人に接せよと考えている。このように礼を重んじることによって、高尚な品性と心構えを養成することが空手道の真の目的である。

 

  空手新聞 第93

  「展望車」コーナー

  発行所:空手新聞社

  発行日:昭和52320

 

(写真提供: Karate-do Shito-Kai Canada代表、サム・モレズキ氏

 

1969年、八木明徳範士とスーパーリンペ
2020.06.19

沖縄公開の夕べ

全国特別招待模範演武 <下>

 

1969923日掲載) 

 

空手の普及に努める

八木明徳範士(剛柔流明武舘)

スーパーリンペ

 

 八木さんは中学(二中)へ合格したという発表をうけたとき、さっそく祖父に手をとられて剛柔流の宮城長順先生のところへ弟子入りさせられた。彼の祖父も福建省で漢字や空手を学んでいた。とくに文武にたけた謝名親方の子孫にあたるので、武道は身につけなければいけないとなかば強制的に空手を教え込まれた。

 十四歳のときから、戦後、宮城先生が健在のときまで指導をうけた。宮城先生はたいへんきびしい方で、はじめのころは空手を教えるというより、正座させて一、二時間も話しだけきかす日々でした。そのため精神的にも肉体的にも苦しい事が多く、長つづきする門下生が少なかったという。しかし先生はついてくる者しか育てないという主義だった。

 八木範士は二中の四年生のころからは、久米町のクラブで学生を相手に指導し、戦後は税関の武道場で空手道の普及につとめた。現在は久米町の自宅に明武舘をつくり、剛柔流の後継者づくりにあたっている。

 八木範士は宮城先生から指導をうけたスーパーリンペを演武する。漢字では「一百零八手」と書き、百八の手ともいう。因みに、除夜の鐘も百八回つかれる。剛柔流のスーパーリンペは、最後に教える型ということで、五段以上になってから身につける。演武時間の長い型で、クーサンクーやパッサイのような派手さはなく、たいへん地味な型。八木範士は「本土の剛柔流の道場には、八㍉カメラにおさめたのをみせたことがあるが、こんどの日本武道館での特別演武のときには、多くの空手関係者の目の前で演武し、剛柔流の参考にでもなれば幸いです」とはりきっている。

 全沖縄空手道連盟副会長、剛柔会会長、那覇市久米町出身、五十七歳。

 

 (読者のために、原文を多少加筆する。)

1969年、比嘉佑直範士とパッサイ大
2020.05.22

沖縄公開の夕べ

全国特別招待模範演武 <下>

(1969年9月23日掲載) 

 

誇りをもって披露

比嘉佑直範士(小林流究道舘)

パッサイ大

 

 比嘉範士はがっちりしたタイプの人であるが、しかし少年時代は、猫背で体が弱かった。そこで十七歳のころ、父の友人である城間次郎さんに紹介され、体力づくりのために空手をはじめたという。城間さんから五年間も手ほどきをうけたあと剛柔流の新里仁安先生、また宮平政英先生からも空手道の指導をうけた。

 戦後はパッサイ大、ナイハンチ三段の型を、知花朝信先生にみてもらったのがきっかけで、知花先生のところへ弟子入りした。比嘉範士は戦前は剛柔流、戦後は小林流の指導をうけただけに、いまでも腰のこなし、歩き方などに剛柔流の血が流れているとのこと。

 比嘉範士が公開するパッサイ大は、知花先生の得意の技。比嘉範士もこんどの演武会で誇りをもって披露したいとはりきっている。

 このパッサイ大は、琉球王朝の指南番だった松村宗棍先生がつくった型で「首里手」の代表の型だといわれている。当時の尚喤王(坊頭大主)(1)もパッサイ大のたん練にはそうとうの力を入れていたという。

 比嘉範士は四十年余も空手道の研究にがんばっているが、現在は全沖縄空手道連盟の理事長として、本場空手道の育成面にもかなりの力を入れている。比嘉範士は「沖縄の空手道は世界の脚光を浴びつつある。しかし空手道には、流派の相違などや複雑な問題をかかえ、正直にいって悩みも多い。とくに本土では沖縄の空手観とは逆に試合化の空手が普及している。空手道のこんごの確固たる方向づけもまとめなければいけないが、連盟の組織を強化し、空手道の健全な発展に努力したい」と話していた。那覇市若狭町の出身、五十九歳。

 

メモ

(1)松村家の墓地内の碑には「第二尚氏王統の17代尚灝王、18代尚育王、19代尚泰王、三代に亘たり王府の御側守役として仕えた」とある。おそらく尚灝王のことです。

 

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1969年、島袋善良範士とアーナンクー
2020.05.08

沖縄公開の夕べ

全国特別招待模範演武 <中>

1969921日掲載)

 

身軽な動作の島袋氏

島袋善良範士(少林流聖武舘道場主)

アーナンクー

 

 五尺たらずの小さい男。幼いころから空手が好きで、先生が職員室に行っている間に、教室のカベをマキワラ代用にして、穴をあけるのを楽しみにしていたやんちゃな生徒だったとのこと。昭和八年、首里市久場川から、現在の北谷村謝苅部落に移住した。十七歳から謝苅で菓子の卸し業をするかたわら、当時、嘉手納村の比謝橋に住んでいた空手道の達人といわれた喜屋武朝徳先生の自宅をたずねた島袋範士は「二十四歳まで八年間も、自転車でかよって先生の指導をうけたが、当時の苦しい空手生活が若いころの楽しい思い出です」と語る。

 謝苅で少林流聖武館道場を開いているが、地域がら外人の門下生も多い。外人はデラックスな乗用車で道場玄関へ横づけ。島袋範士は「時代の相違だね。われわれの若いころには夢にもみなかった。道場がよいだよ」と、小さな体ででっかい外人たちも鍛えている。長男の善保君(二十七歳)も練士の腕前。外人商社に勤務するかたわら、晩は父のアシスタントとして門下生の指導に余念がない。

 島袋範士は喜屋武先生から手ほどきをうけたアーナンクーを演武する。アーナンクーはもっとも機敏の動作がモットーなようで、島袋範士のお気に入りの型。迫力に富んだ演技というより、島袋範士の身軽な動作でのアーナンクーの演武は、小柄な人に注目されるのではないか。六十一歳。

 

 

【訂正】上の長嶺範士の紹介で長嶺範士は松茂良興作、松村宗棍の両氏から指導をうけたとあるのは、両氏の直弟子の本部朝基、喜屋武朝徳の両氏から指導をうけたの誤りでした。

 

追加情報:

島袋善保氏とダン・スミス氏著 『Shorin Ryu Seibukan - Kyan’s Karate』には、「27歳まで空手を始めなかった。(...)1945年4月沖縄戦が始まるまで鍛え続けた」。

 

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1969年、久志助恵範士とワンカン
2020.04.20

沖縄公開の夕べ

全国特別招待模範演武 <中>

(1969年9月21日掲載)

 

 

空手界の理論派

久志助恵範士(松林流道場師範)

王冠

 

 長嶺将真範士の直弟子である。久志範士は沖縄相撲が特意だったが、長嶺範士とは那覇商業の同期生。そのころすでに空手の修業に専念していた長嶺氏の再三のすすめで、久志氏はスポーツ寿命の長い空手に魅せられたという。以来、長嶺氏の指導をうけ、現在は長嶺道場で、松林流師範として後輩の指導に情熱を傾けている。

 がっちりした体力に恵まれ、戦前は波之上奉納相撲大会で、三度も優勝した力士。空手道においても、素質があっただけに人一倍の上達をみせた。昭和十九年には武徳会の沖縄支部の推せんで、京都で開かれる称号審査会に行くことになっていたが戦争でフイになった。沖縄空手道界の理論派ともいわれ、久志範士の空手道における文筆活動も、多くの関係者からつねに注目されている。

 本土のように空手道の試合化は、空手の真髄を失わせるものと、批判の目を向けているが、演武会では得意の王冠(ワンクヮン)を披露する。王冠は〝泊系の手〟だといわれているが作者は不明。しかし古い歴史をもつ型だといわれている。というのは糸数宗綱氏がつくったピンアンなどの新しい型は、左から演武がはじまるが、王冠は公相君のように右からはじまるので、古い型だと推測されている。

 巻手(マチディー)が多いのが特徴のようで、突いてきた手を逃がさずに必殺の一撃を加えるという。とくに体の大きい人に適する型といわれ、久志範士のダイナミックな演武が興味を引く。那覇市泊出身、六十一歳。

 

注意:記事の後半「身軽な動作の島袋氏・島袋善良範士・アーナンクー」は後日公開いたします。