ぶし、サムレーと士族とは
2018.05.25

 

 

 5月24日琉球新報に、「よくわかる沖縄の歴史~社会変化を読み解く~第3話 按司は武士なのか①」という文化コラムが掲載された。執筆者は、1941年那覇市生まれ、沖縄史学者・農学者、沖縄国際大学名誉教授の来間泰男氏。

 氏の記事では、沖縄空手界でよく使われている「武士・サムレー・士族」という言葉がわかりやすく説明された。下記、来間氏のコラムの一部を引用します。

 来間氏によると、沖縄史には戦いそのものがほとんどない。そして、武士は出てこない。按司という、それらしい者がいるので、これを武士だと思っている人もいるが、按司は武士ではない。武士は、日本史で武士が生まれたが、中国や朝鮮の歴史に出てこない。沖縄にも「ぶし」、「サムレー」と「士族」という言葉がある。それでも、沖縄には武士はいなかった。

 

【沖縄語の「ぶし」】

 沖縄では「ぶし」という言葉自体が違った意味を持っている。それは「力の強い者」ということである。

 国立国語研究所編『沖縄語辞典』には、「達人。武芸・唐手などのすぐれた者、大力のある者などをいう」とあり、「武士の転意」と補足されている。

 言語的には日本の「武士」という語を引き写しながら、それを同じ意味ではなく、「天意」して(意味を変えて)使っているのである。

 言葉だけをみても、日本史の武士と、沖縄の「ぶし」は異なっているのである。

 

【サムレー】

 近世になると「士」が現われる。これは「シ」ではなく「サムレー」と読む。東恩納寛惇「旧琉球の階級制度」(1909年)および同『琉球の歴史』(57年)による。これは日本語の「さむらい」に通ずる言葉だが、これを武士と取り違えてはならない。  

 日本史では、武士の登場以前に、「さぶらう」(候ふ/侍ふ)といわれた人びとがあった。かれらは、天皇や貴族のもとに「さぶらう」、つまり「じっとそばで見守り待機する」人びとである。中には武力をもっている者もいた。武官である。それがのちの「武士=侍(さむらい)」につながっていった。しかし、沖縄の「サムレー」は武装していないので、これらとは異なる。琉球の近世では、王府に勤めている人びと(いわば文官)のことを「サムレー」と言ったのである。

 

士族は明治以降

 近代になると「士族」が現れる。これは、明治維新後に「族称」の一つとして初めて使われるようになったものである。族称には「華族」「士族」「平民」があった。以前の武士身分が「士族」とされたのである。もっと言えば、時代が変わって、武士でなくなった者を「士族」としたのである。そして、琉球の「士(サムレー)」も同じく「士族」とされた。このことを指摘することなしに、「士族」という用語を使うのは誤解のもとになる。

沖縄師範学校で空手と棒術の演武
2017.10.14

 1925年には、秩父宮殿下の前で空手が演じられた。しかし、空手だけではなかった。前川棒、かつて稽古場であった洞窟などについて新たな記事を更新しました。

「空手の日」宣言決議について
2017.09.08

 

 

 平成17年(2005年)に、沖縄県議会は下記の宣言決議を発表しました。

 その後沖縄県と沖縄空手界は毎年記念事業を行い、昨年は「那覇市国際通り、3973人で空手のカタを実演|ギネス世界記録」に成功した。

 今年の「空手の日」記念事業は、10月25日(水)沖縄空手会館、29日(日)那覇市国際通りで行います。

 

空手の日の宣言に関する決議

 

 はるか700年のいにしえ、空手はこの地・沖縄で生まれた。先人たちは沖縄の豊かな自然と風土との共生の中から空手という世界に誇る伝統文化を創造した。それは初め「ティ」と呼ばれていた。

 一方、「万国津梁の民」とうたわれた先人たちは、中国や東南アジアを初めとする世界中を駆けめぐって異国の人々との交流を盛んに行い、世界の文化と富をこの地に運んで平和と繁栄を築いた。

 これらの交流とともに、1400年から1500年ごろに中国武術が渡来した。それまで独自の道を歩んでいた空手は中国武術の長所を積極的に取り入れて、見事な華を咲かせた。それが現代に伝えられている空手である。

 1936年10月25日、いまでは世界の空手家や多くの人々になじみとなった「空手」という表記が公式に決定された。それゆえに、この日を「特別な日」として歴史にとどめようとすることは有意義である。

 周知のように、世界の空手人口はおよそ5,000万人と推定され、国境や言語、宗教、体制、人種の壁を超え、その普及する国々は150ヶ国に上ると言われている。戦後わずか半世紀の間にこれほどまで世界の隅々にまで猛烈な勢いで広がったところに、空手のはかり知れない魅力、すばらしさがあると言える。

 言うまでもなく、沖縄の文化でこれほどまでに広範な広がりを持ち、世界中の人々に影響を与え親しまれている文化はほかにない。

 また、空手には「空手に先手なし」という偉大な哲理と「ヌチドゥ宝」の生命尊重の思想を根本理念とする「平和の武」があり、今日の国際社会からますます求められ、貢献を広げていくものと確信する。

 よって、本県議会は、沖縄伝統の空手が今後ますます発展し、世界の平和と人々の幸福に貢献することに願いを込めて、「10月25日」を「空手の日」とすることを宣言する。

 

上記のとおり決議する。

平成17年3月29日

沖縄県議会

 

宣言決議の英訳はこちらへ

空手と縁のある宇栄原
2017.08.15

 首里、那覇、泊という地域は、古来、空手の発祥の地として知られていますが、その他にも多くの地域に武勇伝が存在する。その一つとして、那覇市宇栄原があります。

 宇栄原は、ゆいレール赤嶺駅と沖縄空手会館の近くにある海軍豪公園の間に位置しています。地域の有名どころとして下ヌ御嶽があり、ある資料では、次のように述べられています。

 「この辺りは通称マチガーでと呼ばれています。ここは、小禄では戦後復興がスタートした場所で多くの人がここに住みました。すぐ側にマチガーの御嶽があります。『琉球国由来記』の中に松川(マチガー)という村名は出てくるが、松川の嶽というのは出てきません。ところが殿(1)のところでみると、マチガー嶽の殿というのが出てきます。どうやらここは、松川部落の 殿と嶽が一体となったところと解釈できます。

 

(マチガー)

 

 

 殿というとナー(庭)だけという場合があります。お祭りをする場所ですが、そこに嶽があるということで、ここにはマーニの木、聖なる木が植えられており、聖なる場所であることを表しています。

 昔は、字栄原というところは武士がたくさんいました。その武士達は、毎晩ここで空手の練習をしていたそうです。沖縄の武士というのは、大和の武士と違って、腕っぷしの強い男ということです。」

 別の文献では、故地元の長老の話も記録されている。「宇栄原に、七ケーン坂小(びらぐがー)(2)と言うこうねりくねりの坂道がありました。昔は宇栄原に、そうとう武芸の達者な方がたくさん生まれて、それは困るというので、その七ケーン坂小を改修しました。改修後、宇栄原には武士は生まれなかった」。

 武士が練習していた場所は今、高前原公園として整備されています。

 

(下ヌ御嶽)

 

 

 なおこの字栄原にて、旧暦の625日(3)の直後の日曜日に宇栄原の綱曳きが開催されます。2017年は、8月20日(日)に行われます。勇壮でケンカ綱と呼ばれるような綱引きもありますが、宇栄原の綱曳きは上品で、素朴な行事です。稲の収穫に感謝するお祭りです。

 また地元在住の人による地域巡りツアーもあります。興味ある方は、沖縄空手案内センターへお問い合わせください。

 

脚注:

  1. ここの殿は、殿内のことと思われます。
  2. 推測として、ケーンは「間」のこと、いわゆる1,8メートルのことで、七ケーンは、12,6メートルのことと思われます。
  3. 6月カシチーとは、旧暦の伝統行事の稲の収穫祭です。旧暦の6月25日に付けられているこの行事では、火の神や仏壇に炊いた新米の強飯(カシチー)をお供えします。

 

※公園の住所は、沖縄県那覇市高良2丁目5

 

参考資料:

 おろくの歴史を訪ねる講座(那覇市小禄南公民館、1993年)

 那覇の民話資料(那覇市教育委員会、1984年)

沖縄空手の素晴らしさ
2017.07.14

沖縄県指定無形文化財保持者、上地流範士 友寄隆宏先生の指導体験談

聞き手:長老の先生で、直で伝わっていることに価値があるものです。それで、早速ですが、友寄先生が米兵の熱心な人たちに空手を5、6年のものを一年で徹底して教え、その成果が花開いた事例があると聞きました。ぜひこの話を聞かせて下さい。沖縄の空手の素晴らしさは、沖縄空手を直接指導した人から話を聞く価値があるからです。今回の体験談は、貴重な記録と思い、聞かして下さい。宜しくお願いします。

 

友寄先生:分かりました。実は、1955年又は56年に、宜野湾市野嵩の上地流の道場がかなり有名になって、外人がくるようになった。その小さな道場に通訳がいないものですから、上地完英先生が英語の少し分かる私に頼まれ、先生の側で説明をするようになった。しばらくすると、読谷のトリーステーションから来た人たちが一番熱心でした。そのなか7、8名が来たとき、上地先生は対応難しいということで、私が指導するように言われて、私の家で指導をすることになった。この人たちは一週間何回かではなく、毎日365日、毎日夕方5時から8時まで練習した。そのなかで特にすごく熱意の高かった一人がジョージ・マットソンさんでした。この人は大物になると思って徹底的に鍛えた。

 その時、私が考えた事は、この人たちは一年しかこられないと思い、私が習った事をすべて一ヵ年で教えてみようかと思った。私は、試しのつもりでやって徹底的に指導した。そうするとこの人は本当に強くなった。毎年一回上地流の昇段試験があった、普天間の道場で。マットソンに初段を受けるように行かしたら、沖縄を全部ひっくるめて最高点を取った。

 彼もすごく自信につながったでしょう。特に毎日の鍛え、入れたのを、受けて、叩くという小手鍛えは、相当鍛えてた。あるときバーで兵隊同士が喧嘩となった。マットソンは、攻撃を腕ではねたら相手の腕を折った。それで部隊内で大騒ぎになった。受けた人ではなく、受けられた人がやられたというので、希望者がわっと来た。しかし私は対応できない。12名以内にしか教えられないので、後は、他所の道場に行くように指導した。その一カ年間で鍛えたのはこのジョージ・マットソンです。

 帰るときに、ジョージに訊いた:「アメリカに帰ったらあなたはなにをするの?」。彼は「まずは大学に行きたい」「OK分かった。大学に行ったら、同期生の中から、とてもいい心を持った青年5、6人を選んで教えなさい。そうすれば、あなたも止めずにずっと続けていける。まず教えてごらん」とアドバイスした。

 マットソンが鍛えた6か7名ですが、その父兄が“私の息子は変わった。心と体の大きな変化に沖縄空手はすばらしい”ということで、その父兄がお金を出し合って、東京の銀座みたいなところであるボストンの一番街のハンコック通り(1)というところで父兄が道場を買って提供した。そこで集って練習した人は学校の仲間で、特にお医者さんや弁護士がいっぱい来た。

 その後、ジョージ・マットソンが「THE WAY OF KARATE」(2)という本を出版し、ベストセラーになったものです。それで空手が一気に有名になった。これがアメリカにおける上地流空手の普及のはじまりだと思います。それで、色んな流派の方々が沖縄の兵隊を通して紹介された。

 1966年では、上地完英先生と一緒に呼ばれ各地で演武大会をやったら、ニューイングランド地域で上地流が有名になった。1968年、ジョージ・マットソンの弟子のウオルター(3)たちに呼ばれて、ずっとここで教えてほしいということになった。

 せっかく行くのであれば、行きながらハワイも見てみよと思って、二日三日ハワイに滞在した。そこで、ビザの手続き中に入管のオフィサーに「Mr. Tomoyose, are you going to work in the States?」(4)と言われた。英語は何にも分からないのであれば問題なかったが、少し分かっていたのだから「Yes, if there is any possibility, I want to」(5)。そこで、私のビザである旅券が無効になった。本来ならばすぐに日本に強制送還するけど、「あなたの最終目的はボストンですので、そこまで行かすが、その代わりボストンに着いたら、入国管理事務所に出頭しなさい」と言われた。大変と思ったがどうしょうもない。

 ボストンに着いたら、いろんな人が迎えに来てくれたが皆分かっている。どうするかということを考えたが翌日早速ボストンの入国管理事務所に行ったら、「あなた、上手く引っ掛けられたね!」と言われた。入管法の違反ですので帰らないといけないが、ただし、アピールするのであれば、三ヶ月間は滞在可能とも言われ、私のスポンサーはすぐアピールし自動的に三ヶ月間の滞在許可をもらった。それで早速協議をして、ボストン入管の上部は、ロードアイランド州の入管ということでそこに行こうとした。そこの入管チーフを大変大きな友寄先生歓迎パーティーに招待して、私の幹部たちがこの方にアピールしたら、彼は「Leave it to me6)」と答えてくれて、皆は喜んだ。正しい、必要な書類があるので、その書類を提出しなさいとも言われた。書類をもらうと、スポンサーは何名でどういう人がスポンサーか記入する欄があった。

 第一号とスポンサーになったのは、エドワード・ケネディ(7)。次は、上院議員のブルック(8)、GEのジェネラルエレクトリック社の社長、テキサスオイルコーポレーションの社長、大学の教授たちなど。全部で、8名の有名な人たちが記載し提出したら、入管のチーフが驚いて、アメリカの政治経済を動かす人がバックにいると、下手したら首飛ぶと!そこで、本人はこのケースをワシントンに送った。そこには、似た様なケースが過去にあったので、これを事例にくっつけてボストンに送り返した。

 再びボストンに呼ばれて、入管のチーフに迎えられ頭下げられて、「友寄さん、おねがいだから、何にも訊かないで沖縄に帰ってくれ」と言われた。尋ねても、何にも訊かないようにと言われた。「そのかわり、沖縄に着いたらすぐ、ワーキングビザを申請しなさいと。アメリカで働くための旅券。100%OKしますから」と言われた。その話をケネディに持っていくと、「心配しないで私に任しなさい。必要でしたら、ニックソン(9)に会いに行く」と言われた!みんなは喜んで、ケネディに任せようと決めた。

 そうしたら、最後に東部ニューイングランド一帯の入管最高機関はバーモント州にあるということでそこに行ってくれといわれた。そこにパスポートを持っていったら、大騒ぎになり入管受付のスタッフが私に挨拶しにきた。理由分からなかったが、その後チーフが出てきて、「友寄さん、入管事務所では、あなたの名前を分からない人はいないよ」と説明した!後に、オフィスに入ると、バーモンド州の入管長の息子が上地流の生徒であったことが分かった。結局問題なく10ヶ月アメリカにいました。

 しかし、高校受験の息子の相談が必要と家内から連絡があり、いったん帰ろうと決断した。ケネディさんに呼ばれて、「帰るのか?なら、子供を含め家族全員を呼びなさい。ここに家がありますから!」と言われたが、帰りました。

 帰る前にある日、ニューヨークの道場で指導を終えたら、私に電話があった。知らない人から「ニューヨークのヘリポートまで来て下さい」と言われた。そこにタクシーで行ったら、ハーバード卒業の国連事務所で上地流を教えていたデイビッド・フィンクルステイン(10)の弟子でヘリコプターのパイロットに迎えられ、「先生、どうぞ、乗って下さい」と言われた。それで、ニューヨークの上で15分ぐらい飛んだ!その後、ロードアイランドにある古い城の玄関前に下り、知らない女性に迎えられ案内され、「友寄さん、お昼食はまだですね?」。それですぐ、ご馳走が出された。後に、テキサスオイルコーポレーションの2代目が運営する五つの植物園の内のオリエンタル(日本)植物園に2時間散歩した。

 とにかく、格がまったく違いすごい人です。ある日、ジェット機でパーティーに行くくらいの人が、「友寄先生は、書もやるそうですね。私のために何か書いてもらえませんか」と訊かれた。ボルペンしか持っていなかったから大変と思ったら、大きな中国の古い硯、墨、筆、紙、全部出された。逃げられないので、「水急不流月」(11)という字を書いた。どういう意味かと訊かれると、「フィリップさん、頭でイメージしてみて。ナイアガラのような大きな滝があって、そこにお月様が映っている。この水の流れがどんなに速かろうが、あの月を流すことは出来ない。Everlasting friendshipという意味です」。印鑑も持たないでで、ただ名前を書いたが、とても喜んでもらった!

 とにかく、アメリカでとんでもない人にあっている。エドワード・ケネディ、GEの社長、テキサス石油の王。ブッシュ大統領が市長時代のサイン入り名誉市民の書状ももらった。空手をやっていなかったら、こんな素晴らしい体験は出来なかったでしょう。

 

聞き手:沖縄空手の良さは、ファイティングスポーツではなく、競争ではなく、人間形成をすること。そして、平和を求めるという、争わない心ですね。

 

友寄先生:そこですよ。アメリカの人たちに受けられたのはそこですよ。お医者さんたちも沖縄空手の良さを理解したということで、その医者たちが自分の治療にこのフィジカルトレーニングを取り入れた。そしてすぐに、女の人のお産のときの腹筋に非常に大事なことだと気づいた。腹筋を鍛えるには空手は最高だと判断した。その経験者もみんな安産ということで、広く空手を宣伝した。沖縄では、女の人はお産があるから空手を教えるなと言う逆のことになっていた。しかし、婦人の腹筋を鍛えるには空手が一番いいということで婦人で空手を習うのが多くなった。

 

聞き手:沖縄の空手の価値を県で学術的にきちっと整理して、世界に伝わるようにしていかないといけません。そのため空手課を作らそうとしています。沖縄空手の良さと魅力は、勝ち負けではないことを知らせるため。

 

友寄先生:これは大事です。私もいつも新しい外人が来るとき、「あなたはなぜ空手を習うとしているのか」と訊くと、まじめの彼らは、喧嘩に勝つためと答える。「相手を倒すためのなら止めた方がいいよ。それより、拳銃の打ち方を習ったほうがいいよ。そのほうが早いよ!アトミックの時代に、この空手で相手を倒すと言う時代ではない。それより、これを通して、体を鍛え、心を鍛え、これが大事なポイントですよ。相手を倒す目的なら止めなさい!」と私は言う。

 

聞き手:今、世界が求めているのは、心と体を鍛えて、相手と争わない、平和を求めるという心です。これが沖縄の空手の目的です。世界には、この沖縄空手のようなものはありません。

 

友寄先生:その通りです。例えば、チャンミーグワー(12)が、晩年になって、「自分はね、誰も倒すことなく一生を送れたことが最大の幸福だ」とおっしゃった。まさしく武人だなあと思います。

 

聞き手:今日この素晴らしい話、ありがとうございました。

 

脚注

  1. Hancock Street, Boston
  2. 1963年発刊。200ページ、Charles E. Tuttle Publishing。2回発行1993年。
  3. Walter Mattson(1939年生まれのアメリカ人、高良信徳先生の高段者、範士十段)
  4. 和訳:友寄さん、合衆国で仕事をする予定ありますか?
  5. 和訳:ハイ、何かの可能性があれば、そうしたい。
  6. 和訳:私にお任せ下さい!
  7. Edward Moore "Ted" Kennedy(1932- 2009
  8. Edward William Brooke, III(1919- 2015)。マサチューセッツ州検事総長、連邦上院議員。アフリカ系アメリカ人として初めて、一般投票で選出された上院議員。
  9. リチャード・ニクソン(1913- 1994)第37代大統領を歴任(任期は1969年から1974年)。
  10. David Finkelsteinはマットソンの弟子。8段。2015年死亡。
  11. 友寄先生曰く、「水急なるも月を流さず」。
  12. 喜屋武朝徳 (1870- 1945

 

補足説明:この体験談は、2016126日、沖縄県立総合教育センター小会議室で行われ、2016212日「空手振興課の設置要請」に関する陳情の資料として沖縄県知事翁長雄志に手渡しされました。体験談の聞き手は、沖縄の空手古武術保存会相談役の亀川爵氏。記録者は現、沖縄空手案内センター広報担当のミゲール・ダルーズ。友寄先生の了承を得てここに掲載しています。