特集記事

京阿波根実基、宝剣と空手
2019.01.21

 1522年宮古の仲宗根豊見親から献上された宝剣は王様の守刀として治金丸(1)と命名された。

 京阿波根実基(生没年不詳)は、尚真王の命を受けて宝剣を研ぎ師に鑑定させるために京都へ行くことになった。京都で研ぎ師に鑑定してもらい、無事任務を果たし宝剣を王府に持ち帰った。

 しかし、持ち帰った宝剣は研ぎ師によって取り替えられていたことが判明した。治金丸は京都の研ぎ師を唸らせるほどの名刀だった。持ち帰った宝剣が偽物であることが判明し、再び京阿波根は京都に赴くことになった。3年間探し続けた結果、やっと宝剣を発見し、無事持ち帰ることに成功した。

 王は大いに喜び、京阿波根にたくさんの褒美を与えた。京阿波根の武勇の名声はますます高まっていった。名声が高まれば高まるほど、名声をねたむ者も現れ、ついに王の耳にはいることになったが、王はあえて世間の讒言に取り合いませんでした。ある日、京阿波根を朝廷に招き入れて歓談し、茶をすすめた。しばらくして童子がその隙を見て進み寄り匕首で京阿波根を刺した。

 このときの状況は『球陽』に記述され、文中に「童子の股を空手で打破した」とあり、武術として空手が研究されていたかどうかは不明だが、このころすでに中国人が久米村に帰化しており、また、1372年より始まった朝貢貿易が活発に行われているところから、手(ティー)に中国武術の影響がすでにあったことも考えられ、興味深い記録である。

 なお、京阿波根に関連する記事は『球陽下巻 遺老説伝』、『琉球国由来記』(1713年)、『琉球国旧記』(1731年)にも関連記事がある。

 歴史的な人物である京阿波根実基が、手の使い手であったことは不明です。しかし氏の墓は現在も、首里城下を見守っております。墓は、首里寒川にある美連嶽の裏にあります。

 

 

 参考文献:沖縄空手の定本(津波清著・NPO法人沖縄空手道・古武道支援センター発注)

(1)おそらく、尚眞王のことです。なお治金丸は、那覇市歴史博物館に保管されている。写真はこちらへ

http://www.rekishi-archive.city.naha.okinawa.jp/archives/item1/2059

上地完文翁の銅像除幕式
2018.05.04

 421日、沖縄伝統空手三大流派の一つ「上地流」流祖・上地完文(1877~1948年)の銅像除幕式が流祖の生誕地である本部町の八重岳「桜の森公園」内で500名余りのが参加のもと厳かにとりおこなわれたした。写真で歴史的のその日を振り返ります。

入場

 

除幕式報告祭(神事)

 

沖宮禰宜の上地一郎氏が神事を司った

 

右から、四代目宗家上地完尚氏、上地完司氏、上地完正氏

 

沖宮禰宜・上地一郎氏は、小林流の空手家でもある

 

関係者の皆さん。前列右は、揮毫者の外間哲弘氏

 

神事が終了

 

記念植樹。今回は、本部が知られるシークヮーサーの木が植えられた。

 

四代目宗家の上地完尚氏

 

「瀬底獅子舞」が披露された

 

本部町観光協会當山清博氏の会式の辞

 

上地氏の主催者挨拶

 

本部町長高良文雄氏の挨拶

 

沖縄伝統空手道振興会理事長喜友名朝孝氏の来賓の挨拶

 

左から、2代目宗家上地完英氏、3代目宗家上地完明氏の写真を持つ親族、完明氏三男の完友氏と次男完司氏

 

左から、上原三郎氏の次男上原勇氏、上運天政孝氏、県指定無形文化財保持者上原武信氏

 

除幕その1

 

除幕その2

 

関係者の記念写真

 

上地完文翁の銅像

 

銅像前で「三戦(サンチン)」奉納演武

 

 

上地完尚氏の弟完司氏(44)

 

 

上地完尚氏のおじ完正氏(66 )

 

上地完尚氏の弟完友氏(37)

 

銅像(180cm)は台座を含めて約5メートル

 

高江靖氏の閉式の辞

 

島袋春吉氏の号令

 

有志による型「完子和」の演武

 

礼に始まり、礼に終わる

 

上地完文翁銅像建立委員会の皆さん

 

上地家の皆さん

 

除幕式に参加した皆さん

 

台座にある説明版(揮毫者:外間哲弘氏) 台座にある英語説明版(翻訳者:ミゲール・ダルーズ)

 

       

 

松茂良興作の足跡を歩く
2017.12.26

 

 泊港は、その昔、首里王府の貿易港として栄えた。特に中山王府樹立後は、泊村が海外からの玄関口として諸外国との交流がさかんになり、泊村の人達の中から、漢学、芸能、音楽、武術等、種々の分野で活躍する大家が誕生した。

 泊港に上陸した外国人は、泊の聖現寺(俗称天久の寺)の境内に、種々の物資を陸揚げし、この寺が、彼らの琉球滞在中の活動の拠点となったと言われている。中には、中国、朝鮮等の交易船が漂着することもあった。泊の人達は、漂着者の中にいる武人から武術の伝授を受け、首里、那覇とは変わった独特の泊手が誕生したといわれている。

 泊手は、照屋規箴(18041864年)と宇久嘉隆(18001850年)に始まる。この両師に師事し、後に照屋師の後を継いだのが、松茂良興作(18291898年)である。松茂良は、泊手を、首里手、那覇手と並び称されるまでに武術を高めた人で、後世、泊手中興の祖といわれた。

 現在沖縄県には、松茂良興作に関連するゆかりの地や記念碑が六ケ所ある。

 那覇市内には、松茂良興作の顕彰碑カーミヌヤー洞窟武士松茂良のリリーフがある。

 この洞窟について、孫にあたる松村(旧姓松茂良)興勝氏の著書『空手(泊手)中興の祖 松茂良興作略伝』には次のように書かれている。

 興作は、宇久嘉隆と照屋規箴より空手の手の手解きを受けて後、「興作は泊浜の『カーミヌヤー』という洞窟に住んでいた中国人【一説には琉球人が王府に身元を秘すため中国人に扮していたといわれているがいずれにしろ真相は不明】に空手の教えを乞うた。一旦は断られたが興作のたっての熱望により教授することになり・・・」と記述されている。

 恩納村には、松茂良が追い剥ぎを押さえたフェーレ岩とおがある。

 最後は、名護市に位置する松茂良興作隠棲屋敷跡があります。このことについて、那覇市泊にある新屋敷公園の顕彰碑にも次の様に刻まれている。「後難を慮れ一時名護村に身を隠した」と。松村興勝氏の書籍にも同様のことが述べられている。

 泊手中興の祖として歴史に刻まれた松茂良興作は、武士としてだけではなく、人のため世のために生きるを心とし、真の武人として沖縄人の心に永遠に生きつづけるでしょう。そのことは、顕彰碑にも記されおり、それを下記に引用する。

 「泊村には昔から琉球王府よりの共有財産の外に王府の科挙に合格して官吏に登用された山里朝賢翁が泊村住民の福祉のために寄贈された内輪御持(共有財産)があった。

 明治12年廃藩置県の際日本官吏が其の財産迄引き揚げるべく策を計ったが松茂良興作外泊の武人の身命を賭した気概に断念しこの浄財は今尚泊先覚顕彰会の基金に活用されている。我々は破邪顕正の道を貫いた拳聖松茂良の名を永遠に残す。」

 

 

参考資料:空手道・古武道基本調査報告書、沖縄県教育委員会、松村興勝著『武士 松茂良興作略伝』(1970年発行)

松村宗昆の遺墨
2017.10.20

 

 沖縄空手会館資料室には、松村宗昆(1)の遺墨「人常敬恭 則心常光明也」が展示されています。

 この掛軸は、1987年発行宮城篤正著『空手の歴史』(おきなわ文庫)に紹介されており、資料室の作品は、実物をもとに複製されたものです。

 この文は、中国の儒学者 朱子の問答録である『朱子語類』からの引用と思われます。

 宮城氏は「武士松村も文武両道に秀でた武人として知られ、ここに掲載する遺墨はまさにそのことを証明するにふさわしい好資料である。読みは『人、常に敬恭なれば、則ち心は常に光明なり』である。宗昆七十六歳のときに書いたもので、筆力や語句などからいかにも武人らしい作品である。」と紹介しています。

 号「雲勇」、もしくは「武長」と称した松村宗昆のこの素晴らしい遺墨の右側にある「常」の字が特に美しく書かれており、古武術の釵(さい)或いは簪(ジーファー)が回転するかのように思えます。

 ぜひ、沖縄空手会館を訪れ、空手中興の祖(2)こと松村宗昆の書をご鑑賞ください。

 

(1)松村宗昆の「昆」は「棍」とも書きますが、この遺墨では「昆」と明記されています。

(2)空手の中興の祖として、松村宗昆(首里手)、松茂良興作(泊手)、東恩納寛量(那覇手)がいる。

 

写真提供 : 沖縄県空手振興課・沖縄空手会館

沖縄師範学校で前川棒の披露
2017.10.14

 1925年から1927年、秩父宮殿下は英国に留学した。
 1925年5月、渡欧の途中来沖し、沖縄師範学校にて御前の唐手演武が披露されたと記録があります。当時の指揮者は、後に剛柔流を命名した宮城長順氏です。
 現在この様な催しは、空手の演武として知られていますが、実は、演武された種目には、空手だけではなく、棒術もありました。

 

 


 沖縄県南城市玉城字前川にあるおきなわワールドは、現在沖縄県最大の文化観光施設の一つになっています。そのおきなわワールドが運営する「ガンガラーの谷」内に古武術と関連する「武芸洞」という史跡があります(上記写真)。
 担当者によると、戦前、玉城村前川の村祭りの際に村棒の演武が行われていて、ある組は「武芸洞」で練習をしたという。たしかに洞穴内には、稽古ができる広い空間があります。
 昔の武人は隠れて稽古をしていたと言われるように、玉城村前川誌によると、「村の祝事の時等に、余興として演じられる出し物を練習するにも、各組の対抗意識がはげしく、日が暮れる時分から組頭の家や洞穴の中等で、他の組の者に見られないように夜おそくまで練習をした。」と記述されています。
 また、沖縄の他地域と同様に前川という字は、棒術が盛んであった。同誌に『棒術演武』という章があり、それを下記に紹介します。

 

 


 「大正十四年五月十二日、秩父宮殿下渡欧の途中来沖なされた時に、県より表彰を受けた事のある前川青年分団、分団長大城十郎(仲大城小)が玉城村代表として、殿下の御前で催される古武術大会に出場されるようにと、県より通達が区長大城現作(識名)宛に来ていた。
 当時は首里師範学校の校庭で県下市町村の代表による古武術大会が催され、師範学校生徒の空手と組手が演じられた。玉城村代表前川青年分団のスージヌクン(周氏の棍)が演じられると大会場から盛大な拍手がおくられたという。出場者の旅費や衣装は全部県より支給された。
 また同じ頃首里の棒大城(ぼーうふぐすく)という人が県の任命により棒術の師匠として前川区に巡遺された。棒大城は毎日前川まで通って午後二時頃から午後五時頃迄の三時間、区の村屋(区の中央にあった区事務所)の広場で十四日間みっちり棒術スージヌクンを教えたという。」
 貴重な資料であるこの前川誌を通して、当時の様子を描き、大正時代の沖縄の武術の基本は空手(型のこと?)、組手、棒術であったことが分かります。
 沖縄師範学校の跡地には顕彰碑があり、稽古場だった「武芸洞」も訪れることもできます。来沖の際に是非この二地域を訪れてみてはいかがでしょうか。
 なお、現在も前川青年会は、「芸能部隊」として活動しています。「アヤグ」という伝統芸能の他、同区に昔から継承されている「ユシグェー」、「舞方棒」、「ティンベー」なども保存しています。

 

参考資料:玉城村前川誌、沖縄空手通信58号