特集記事

古武道⑨ 仲井間憲孝並びに内間安勇
2019.12.03

 

1961年1126

古武道⑨

 

父子で二丁ガマ

仲井間憲孝(51歳)

二丁ガマ

 

 明治四十三年那覇市久米町の〝棒仲井間〟とあだ名される武術一家に生まれ、物心ついたころには空手を始めていたという。十四、五歳のころには、武術を一通り修得したと語っている。

 この武術は、祖父憲里氏が清朝時代に福建省に留学して修得したもの。これについてエピソードがある。祖父憲里氏は十四、五歳のころ当時あった一万貫模合をおとした晩、泥棒がはいったが近所の人の機転で難をのがれたという。そのとき男のたしなみとして武術の必要を感じ習い始めたもの。

 この武術は、首里、那覇で知られたころ〝御冠船〟の歓迎会のとき憲里氏がタイを披露したところ清朝の役人の目にとまり、留学のきっかけとなったもの。

 三年間福建省で修行して帰ったが、憲里氏は、弟子をとらず、子から孫へと一子密伝の形で仲井間家に伝えたため、未公開のものが多く、とくに武器を用いる武術〝タイ〟〝カマ〟〝棒〟をはじめ〝テンベー〟〝守鎮〟など多く残している。

 そのほか沖縄独特の馬術も仲井間さんは修得しており、乗馬用の馬を持っているのは全島の校長の中でも仲井間さんだけと言われている。仲井間さんは「武術は原始的には殺人術だがそれを人倫の道にかなう道徳まで高め、哲学の境地に達してはじめて武道になる」と、さいきんおこった拓大の空手殺人事件の批判をちょっぴり。

 こんど公開される古武術について「古きがゆえに保存するのではなく、ほんとうに価値のあるもの」という観点からほかに目新しいものはたくさんあるが二丁ガマを選び他の人のカマと比較したいと意欲をもやしている。仲井間さんは二丁ガマ二段を演じ、一段を琉大にいる二男が受け持つことになり父子で出演することになっている。

 

https://www.youtube.com/watch?v=skD9iTGYVA8&feature=share&fbclid=IwAR3ZGSnTxP-q91fSmtqNAoB3lXfeC0RcMV3pXlLORti7K1Yjg2Vx3JyK6jw

 

 

内間 最年少の出演者

内間安勇(23歳)

ナイハンチ

 

昭和十三年南大東の北区に生まれる。離島からの出演者は内間さんだけで、さる四日に来覇、比嘉会長の宅で出演を待っている。最年少の出演者でナイハンチを演武する。内間さんのナイハンチは本島の型と違っているが、ナイハンチの原型がそのままのこっているのではないかと、見られている。

おじの安壱さんから指導をうけているというが、安壱さんは戦前南洋で、本部朝祐氏の息子トラジュー(通称)と寝食をともにしながら空手の修養にいそしんだ。本部さんは首里の武士松村の門弟で、安壱さんはその息子のトラジューから指導を受けたので、武士松村の流れをくんでいるというわけである。比嘉会長は内間さんのナイハンチを見て「目の位置、手と足、体の動作などが、本島のナイハンチと違う点がある。おじが本部朝祐氏の息子トラジューから指導をうけているので、こんどの内間君の演武で武士松村の原型をしのべるのではないか。みんなで注目するナイハンチである」と語っている。南大東では空手は普及されず、安壱さんとその息子、それに安勇さんの三人がやっているだけ。十四歳のときから習いはじめて、現在農業のかたわら空手のけい古に余念がない。

「こんどの公演に出演できるのを喜んでいます。本島の先輩たちの古武道も見られるし、またいっぺんは私もみんなのまえで演武したかった」と、公演をまえにはりきっている。

 

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古武道⑧ 喜屋武真栄並びに兼島信栄
2019.11.07

1961年1125

古武道⑧

 

若い世代に伝えたい

喜屋武真栄(49歳)

サイ

 

 明治四十五年北中城村字比嘉に生まれる。小学生のころ恩師の喜納昌盛先生がサイの名人だったので、先生にあこがれ武道を習いはじめた。こんどの発表会では師弟いっしょにサイの演武をする。サイは手首の操作、動作が変化に富んでいるので、非常に興味深い武術である。だから今日まで四十年間もサイをつづけてきたが、鍛練が苦しかったということは覚えていないという。「どこの国でも民族保存のための武術がある。しかし沖縄のサイは世界の武術のように、相手を刺殺して自己を守るのではなく、相手に危害を与えず静めるのが目的である。これは言葉ではいいつくせない深い意義がある。

 沖縄のサイが人体をかたどって武具化したのも平和理念の象徴だ」と語り人の形を武具化したサイを両手に握って、スピーディーな操作を見せた。とくに手首の動作の変化がいちじるしく、まかり間違って側にサイが飛んでくるのではないかと、ハラハラさせられる。だがサイを握って以来、一度もサイをすべり落したことがないという。サイは人体をかたどった着想も立派なものだが、五本の指で自由自在に操作できるようになり、攻防の術にマッチしているようだ。「郷土独特のサイと棒を器具体操とし学校体育の科目にしたい。現在の演武は個人演武だが、これを団体演武にすれば、体育の上からも、また先祖ののこした立派な古武術を継承する意味で、教育的な立場からもいいと思う」と話し、またわれわれはより多くの若い世代へつたえて行く義務があるとつけ加えた。

(現沖縄教職員会事務局長)

 

柔と剛をかね合わす

兼島真栄(61歳)

ナイハンチ

 

 空手を健康法の一つにしている兼島さんはこんどの発表会でナイハンチとサンチンを披露する。兼島さんは子どものとき体が弱かったので「健康法」の一つとして父信備さんから空手を教えられた。それ以来空手は毎日の日課となり毎あさ雨が降っても風が吹いても空手をやっているという。

 兼島さんの空手は伊志嶺流といわれ、別名「熊の手」といわれている。見た目にはちょっと無格好だが迫力があり力感があふれている。ナイハンチにもいろいろな型があるが、動作がだいたんで力量のある人に適しているといわれている。兼島さんは「剛と柔」をかね合せているのが伊志嶺流の特徴であると語っていたが、空手着を着た兼島さんは六十一歳とは思われない若々しさが感じられる。

 まだ眼鏡の世話にならないで字を読み、この通りまだ元気だよとサンチンをやってみせた。「父の手ほどきで武術を身につけたが空手のけい古を苦に思ったことがない」という。空手のけい古は激しく、だれでも一度はネをあげるのが普通だといわれているが、兼島さんは毎日の日課にしたため、三度の食事と同じように楽しみをさえおぼえたという。

 十九歳に上京、日大の法科に学び、学生時代は空手や柔道に精進、現在、絵、書道、詩吟などで生活をエンジョイしているという。

(検察庁勤務)

 

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古武道⑦ 石川逢英並びに比嘉清徳
2019.10.29

 

1961年1124

古武道⑦

 

父はヌンチャクの大家

石川逢英(50歳)

ヌンチャク

 

 明治四十四年首里に生まれる。父逢康さんはヌンチャクの大家として知られて、武芸一家に生まれた逢英さんは子供のときから古武術にしたしみ、十一歳のとき空手を仕込まれた。こんどの発表会には父逢康さんの特技ヌンチャクを披露する。

 ヌンチャクは支那から伝わってきたといわれているが、戦前はあまり普及されなかったので、使い手は少ない。ヌンチャクの特徴は棒より使用範囲が広いことで、攻撃しやすいのが利点だといわれている。型は空手の型をとって自分で編みだして一つの型をつくっている。

 石川さんは子どものときから見たり聞いたりして空手にしたしんでいたが、ヌンチャクは日体大を卒業した二十三歳のときから始めた。空手を一応マスターしてから古武術を始めたので始めたのはおそかったという。しかし生来の起用さが手伝ってけいこを始めてからは上達は早かった。

 「父に甘やかされてけい古をしたので父の半分も使えない」とけんそんして語っていたが、きたる武演会にはファイトを燃やしている。石川さんはヌンチャクの心がまえとして「攻撃が簡単だからといってけっして乱暴をしてはいけない。ヌンチャクはその人の心がけで凶器にもなれば役にも立つ」と語っている。戦後はヌンチャクをけい古している青少年が多く、戦前より普及されつつある。

 

https://www.youtube.com/watch?v=yePfZ4_DDag&feature=share&fbclid=IwAR3-TzqFjLW0vUqc57rbewUl3xzxJzis5lMOQrsuZpY454bH-ri1o9HGlN0

 

 

古武道の復活に尽す

比嘉清徳(41歳)

宋氏のこん

 

 大正十年首里の末吉町に生まれる。古武道協会の会長で、古武道の復活には人一倍に情熱をかたむけている。「流派をこえ純粋な武道愛で、郷土の古武道を復活させたい・・・」と、抱負をのべている。現在、法務局民事課長で、めがねをかけたやさしそうな風貌だ。どうみても棒の使い手とは信じがたいタイプである。だが空手着をつけ棒を握るととたんに、きびしさと鋭さを感じさせる。こんど発表する宋氏のこんを披露したが、関節の鳴る音や棒で風を切る音を立てながら、道場いっぱいに動きまわった。〝陰れ武士〟とはこういう人のことだろうか。宋氏のこんとは山根流の基本型で、家元の知念正美氏から指導をうけたという。

 写真は棒一本で全身を防御した宋氏のこんの一コマである。

 十歳のころから棒に親しみ、最初はおじさんから手ほどきをうけた。それ以来、四十年間も棒ひと筋に精魂を打ちこんだ人である。昭和四年中大の法科で学ぶかたわら、学生会を中心に活発な演武活動を行なった。とくにやすみなどのときには、宮本武蔵の小説に刺激され、全国行脚の武者修行にいそしんだという。「野宿をしたり、雨が降ればお寺で一夜を過ごしたりまた滝に打たれて精神の修養をしました。そのときの修行は、毎日の生活にも大いにプラスになりますね。また学生生活のいい思い出にもなっている」と、語っている。

 

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古武道⑥ 野原蒲一並びに高良茂
2019.10.08

 

1961年1123

古武道⑥

 

出演者の最年長者

野原蒲一(83歳)

四方切り

 

 明治十二年東風平村字富盛に生まれる。八十三歳。出演者のなかでもっとも年上である。棒術を知らない部落の子どもたちでも〝野原のおじいさん〟といえば〝棒術の師匠〟だとよく知っている。

 柔道の三船十段のような小柄なタイプで、きびきびした動作は、この人が八十三歳にもなるかと、首をかしげたくなる。

 富盛部落は、戦前は棒の盛んなところで、八月十五夜の日には、南と西に分かれて棒術の演武大会があったという。しかし戦後になって途絶えてしまった。野原さんは部落伝来の棒術(四方切り)を復活させようと、懸命になったが実を結ばなかった。青年たちは棒に対する関心がないようだ。七十年余の棒を握ってきたので、部落から棒が滅んで行くのを寂しがっている。

 一昨年、公民館の落成式のときには、演武を買って出たほど、棒術の好きなおじいさん。部落での結婚式やお祝いがあるときなどは、喜んで演武をひきうけているという。

 「こんど古武道協会の勧めで那覇劇場で演武ができるのはほんとによかった。年で活発な棒を見せることはできないが、型だけはしっかり覚えています」と、はりきっている。七十歳までは七十斤ぐらいの重いのを、かつぐのはなんでもなかったというだけあって、〝四方切り〟を身軽にやってのけた。「よる年には勝てないな」と語りながらも、〝三方切り〟がこれですよと、つづけて演武、まだまだ元気なところを見せた。

 

https://www.youtube.com/watch?v=MMYkaDw08z4&feature=youtu.be&fbclid=IwAR0jqupvhfA5OlW-80GNrxlE5-QqGmLWsUapXNXfwbzX9UqPtgJTbQt3dx8

 

 

気合術と〝セイサン〟を披露

高良繁(53歳)

氣合術

 

 こんどの発表会で気合術とセイサン(空手)を披露する。髙良さんは子どものときから武芸の好きな父蒲戸さんからいろいろな武術を仕込まれて成長した。十歳のときからサイを握ったというからもう四十年余りになる。  

 最初は父のサイやヌンチャクをとりだして遊び道具に使うていどのものだったが、次第に興味をおぼえ、父蒲戸さんがなくなってからも喜屋武朝徳さん(チャンミー小)に師事、空手を本格的にけい古した。髙良さんは空手、古武術、気合術となんでもこなせるが、とくにこんどは協会の希望で気合術とセイサンを演武することになった。

 「気合術」は千葉県安屋郡富田村に住む田村義一さんから手ほどきをうけたが、人間業とは思えないほどのはなれワザを演ずる。腕に六寸五分の針をとおし、それに鎖をつないで大型乗用車を引っぱったり、腹の上から乗用車をとおすので人間ワザとは思えない。那覇劇場での発表会は会場が狭いため、乗用車を乗り入れることはできないが、それに代わる極秘を紹介したいと語っている。セイサンはチャンミー小の形見の一つ。サンチンに似て、型をつくり、筋肉をきたえるのが主な目的で、空手をやる人ならだれでもやらなければいけないものだという。

 気合術は最低二十年修行しなければ、一人前になれないというが、髙良さんの両腕にある無数の針の傷跡は、修業の苦しさを物語っているようだった。

 

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古武道⑤ 祖堅方範並びに城間大盛
2019.07.02

 

1961年1122

古武道⑤

 

祖堅〝松村〟の後継者

祖堅方範(70歳)

銷鎌

 

 明治二十四年西原村我謝に生まれる。現在少林流空手・古武術師範として門弟の指導にあたっている。

 祖堅さんが空手を始めたのは十二歳のとき、母カミーさんの兄松村さん(三代目・首里)から手ほどきを受けた。男の子が年ごろにもなってぶらぶらしていたんじゃろくな人間にはなれないと空手を仕込まれたというが、まだ子どもであった祖堅さんには当時のけい古はだいぶ苦しかったようだ。十二歳のとき親元を離れてから松村道場に住み込み、朝は門弟より早く起きてあさけい古、夜もおそくまでけい古をしたという。最初は軽いけい古であったが、上達するにしたがってゲタの脱ぎ方から逃げるけい古までやった。「空手に先手なし」といわれているように空手を修業するものは、「いかにして逃げるか」も研究しなければいけないと語っていた。

 沖縄全島の武術家を一堂に集めた演武会が大正十三年那覇の大正劇場で行なわれたといわれているが、祖堅さんも喜屋武朝徳(チャンミー小)本部朝祐(本部サールー)らとともに出演した。

 祖堅さんは武歴五十八年、その間宮古やアルゼンチンにも渡ったが武術に精進し戦後故郷の西原村我謝に松村先生の正統な後継者として少林流と名乗り、道場を開いた。

 今までに教えた弟子の数は約二百人。現在の約二十人の門弟が毎日けいこに励んでいる。こんどの発表会では鎖鎌を演武するが弟子からも六人出演する。

(現住所西原村我謝)

 

 

大屯棒を演ずる城間

城間大盛(77歳)

大屯棒

 

 明治十八年大里村字大城に生まれる。幼いころ、部落の祭りで青年たちが勇敢な姿で、棒術を演武するのを見て興味をもった。

 十七歳になって村で棒術を教えている普天間大越先生へかよいはじめた。運動神経に恵まれていたので先生も「君はきっとうまくなるよ」と、人一倍かわいがってくれた。それから終戦後の二、三年までつづけた。「年には勝てないもので、いまでは棒を振るのがやっとですよ・・・」と、若いときを思い出して、じれったい表情で語った。

 昭和三年、与那原国民学校で行われた今上天皇の後大典記念演武会で、演武したこともある。そのときの演武が唯一の思い出になっている。

 「部落の青年たちにも、棒術を習って体をきたえるようにといってきたが、今の若いのは棒なんて見向きもしない。いつでも一人で楽しめるし、いなかではもってこいの運動ですがね。こんどの公演でも部落の青年に分るのがいたら、若いのにさせるが、だれもいなくて困っている。私は大屯棒の手数だけ披露するのがやっとですよ」とひかえめに話している。

 長男の盛光さんには子供のときから教え、大屯棒を身につけているが、現在は静岡県の沢津市に住んでいるという。自分のむすこにはわがままがきくから、月夜には夜中に起こして、丘でよく教えた。

 「こんど古武道の発表会があって、私が大屯棒をやると手紙で知らせたら、むすこも喜んで体に気をつけてしっかりやるようにと激励している」と語り、そのあと床の間に置いてあった棒を取り出し〝大屯棒とはこんなものですよ〟と演武して見せた。

(現住所大里村字大城)

 

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