松茂良興作の足跡を歩く
2017.12.26

 

 泊港は、その昔、首里王府の貿易港として栄えた。特に中山王府樹立後は、泊村が海外からの玄関口として諸外国との交流がさかんになり、泊村の人達の中から、漢学、芸能、音楽、武術等、種々の分野で活躍する大家が誕生した。

 泊港に上陸した外国人は、泊の聖現寺(俗称天久の寺)の境内に、種々の物資を陸揚げし、この寺が、彼らの琉球滞在中の活動の拠点となったと言われている。中には、中国、朝鮮等の交易船が漂着することもあった。泊の人達は、漂着者の中にいる武人から武術の伝授を受け、首里、那覇とは変わった独特の泊手が誕生したといわれている。

 泊手は、照屋規箴(18041864年)と宇久嘉隆(18001850年)に始まる。この両師に師事し、後に照屋師の後を継いだのが、松茂良興作(18291898年)である。松茂良は、泊手を、首里手、那覇手と並び称されるまでに武術を高めた人で、後世、泊手中興の祖といわれた。

 現在沖縄県には、松茂良興作に関連するゆかりの地や記念碑が六ケ所ある。

 那覇市内には、松茂良興作の顕彰碑カーミヌヤー洞窟武士松茂良のリリーフがある。

 この洞窟について、孫にあたる松村(旧姓松茂良)興勝氏の著書『空手(泊手)中興の祖 松茂良興作略伝』には次のように書かれている。

 興作は、宇久嘉隆と照屋規箴より空手の手の手解きを受けて後、「興作は泊浜の『カーミヌヤー』という洞窟に住んでいた中国人【一説には琉球人が王府に身元を秘すため中国人に扮していたといわれているがいずれにしろ真相は不明】に空手の教えを乞うた。一旦は断られたが興作のたっての熱望により教授することになり・・・」と記述されている。

 恩納村には、松茂良が追い剥ぎを押さえたフェーレ岩とおがある。

 最後は、名護市に位置する松茂良興作隠棲屋敷跡があります。このことについて、那覇市泊にある新屋敷公園の顕彰碑にも次の様に刻まれている。「後難を慮れ一時名護村に身を隠した」と。松村興勝氏の書籍にも同様のことが述べられている。

 泊手中興の祖として歴史に刻まれた松茂良興作は、武士としてだけではなく、人のため世のために生きるを心とし、真の武人として沖縄人の心に永遠に生きつづけるでしょう。そのことは、顕彰碑にも記されおり、それを下記に引用する。

 「泊村には昔から琉球王府よりの共有財産の外に王府の科挙に合格して官吏に登用された山里朝賢翁が泊村住民の福祉のために寄贈された内輪御持(共有財産)があった。

 明治12年廃藩置県の際日本官吏が其の財産迄引き揚げるべく策を計ったが松茂良興作外泊の武人の身命を賭した気概に断念しこの浄財は今尚泊先覚顕彰会の基金に活用されている。我々は破邪顕正の道を貫いた拳聖松茂良の名を永遠に残す。」

 

 

参考資料:空手道・古武道基本調査報告書、沖縄県教育委員会、松村興勝著『武士 松茂良興作略伝』(1970年発行)

松村宗昆の遺墨
2017.10.20

 

 沖縄空手会館資料室には、松村宗昆(1)の遺墨「人常敬恭 則心常光明也」が展示されています。

 この掛軸は、1987年発行宮城篤正著『空手の歴史』(おきなわ文庫)に紹介されており、資料室の作品は、実物をもとに複製されたものです。

 この文は、中国の儒学者 朱子の問答録である『朱子語類』からの引用と思われます。

 宮城氏は「武士松村も文武両道に秀でた武人として知られ、ここに掲載する遺墨はまさにそのことを証明するにふさわしい好資料である。読みは『人、常に敬恭なれば、則ち心は常に光明なり』である。宗昆七十六歳のときに書いたもので、筆力や語句などからいかにも武人らしい作品である。」と紹介しています。

 号「雲勇」、もしくは「武長」と称した松村宗昆のこの素晴らしい遺墨の右側にある「常」の字が特に美しく書かれており、古武術の釵(さい)或いは簪(ジーファー)が回転するかのように思えます。

 ぜひ、沖縄空手会館を訪れ、空手中興の祖(2)こと松村宗昆の書をご鑑賞ください。

 

(1)松村宗昆の「昆」は「棍」とも書きますが、この遺墨では「昆」と明記されています。

(2)空手の中興の祖として、松村宗昆(首里手)、松茂良興作(泊手)、東恩納寛量(那覇手)がいる。

 

写真提供 : 沖縄県空手振興課・沖縄空手会館

沖縄師範学校で前川棒の披露
2017.10.14

 1925年から1927年、秩父宮殿下は英国に留学した。
 1925年5月、渡欧の途中来沖し、沖縄師範学校にて御前の唐手演武が披露されたと記録があります。当時の指揮者は、後に剛柔流を命名した宮城長順氏です。
 現在この様な催しは、空手の演武として知られていますが、実は、演武された種目には、空手だけではなく、棒術もありました。

 

 


 沖縄県南城市玉城字前川にあるおきなわワールドは、現在沖縄県最大の文化観光施設の一つになっています。そのおきなわワールドが運営する「ガンガラーの谷」内に古武術と関連する「武芸洞」という史跡があります(上記写真)。
 担当者によると、戦前、玉城村前川の村祭りの際に村棒の演武が行われていて、ある組は「武芸洞」で練習をしたという。たしかに洞穴内には、稽古ができる広い空間があります。
 昔の武人は隠れて稽古をしていたと言われるように、玉城村前川誌によると、「村の祝事の時等に、余興として演じられる出し物を練習するにも、各組の対抗意識がはげしく、日が暮れる時分から組頭の家や洞穴の中等で、他の組の者に見られないように夜おそくまで練習をした。」と記述されています。
 また、沖縄の他地域と同様に前川という字は、棒術が盛んであった。同誌に『棒術演武』という章があり、それを下記に紹介します。

 

 


 「大正十四年五月十二日、秩父宮殿下渡欧の途中来沖なされた時に、県より表彰を受けた事のある前川青年分団、分団長大城十郎(仲大城小)が玉城村代表として、殿下の御前で催される古武術大会に出場されるようにと、県より通達が区長大城現作(識名)宛に来ていた。
 当時は首里師範学校の校庭で県下市町村の代表による古武術大会が催され、師範学校生徒の空手と組手が演じられた。玉城村代表前川青年分団のスージヌクン(周氏の棍)が演じられると大会場から盛大な拍手がおくられたという。出場者の旅費や衣装は全部県より支給された。
 また同じ頃首里の棒大城(ぼーうふぐすく)という人が県の任命により棒術の師匠として前川区に巡遺された。棒大城は毎日前川まで通って午後二時頃から午後五時頃迄の三時間、区の村屋(区の中央にあった区事務所)の広場で十四日間みっちり棒術スージヌクンを教えたという。」
 貴重な資料であるこの前川誌を通して、当時の様子を描き、大正時代の沖縄の武術の基本は空手(型のこと?)、組手、棒術であったことが分かります。
 沖縄師範学校の跡地には顕彰碑があり、稽古場だった「武芸洞」も訪れることもできます。来沖の際に是非この二地域を訪れてみてはいかがでしょうか。
 なお、現在も前川青年会は、「芸能部隊」として活動しています。「アヤグ」という伝統芸能の他、同区に昔から継承されている「ユシグェー」、「舞方棒」、「ティンベー」なども保存しています。

 

参考資料:玉城村前川誌、沖縄空手通信58号

「空手の日」宣言決議について
2017.09.08

 

 

 平成17年(2005年)に、沖縄県議会は下記の宣言決議を発表しました。

 その後沖縄県と沖縄空手界は毎年記念事業を行い、昨年は「那覇市国際通り、3973人で空手のカタを実演|ギネス世界記録」に成功した。

 今年の「空手の日」記念事業は、10月25日(水)沖縄空手会館、29日(日)那覇市国際通りで行います。

 

空手の日の宣言に関する決議

 

 はるか700年のいにしえ、空手はこの地・沖縄で生まれた。先人たちは沖縄の豊かな自然と風土との共生の中から空手という世界に誇る伝統文化を創造した。それは初め「ティ」と呼ばれていた。

 一方、「万国津梁の民」とうたわれた先人たちは、中国や東南アジアを初めとする世界中を駆けめぐって異国の人々との交流を盛んに行い、世界の文化と富をこの地に運んで平和と繁栄を築いた。

 これらの交流とともに、1400年から1500年ごろに中国武術が渡来した。それまで独自の道を歩んでいた空手は中国武術の長所を積極的に取り入れて、見事な華を咲かせた。それが現代に伝えられている空手である。

 1936年10月25日、いまでは世界の空手家や多くの人々になじみとなった「空手」という表記が公式に決定された。それゆえに、この日を「特別な日」として歴史にとどめようとすることは有意義である。

 周知のように、世界の空手人口はおよそ5,000万人と推定され、国境や言語、宗教、体制、人種の壁を超え、その普及する国々は150ヶ国に上ると言われている。戦後わずか半世紀の間にこれほどまで世界の隅々にまで猛烈な勢いで広がったところに、空手のはかり知れない魅力、すばらしさがあると言える。

 言うまでもなく、沖縄の文化でこれほどまでに広範な広がりを持ち、世界中の人々に影響を与え親しまれている文化はほかにない。

 また、空手には「空手に先手なし」という偉大な哲理と「ヌチドゥ宝」の生命尊重の思想を根本理念とする「平和の武」があり、今日の国際社会からますます求められ、貢献を広げていくものと確信する。

 よって、本県議会は、沖縄伝統の空手が今後ますます発展し、世界の平和と人々の幸福に貢献することに願いを込めて、「10月25日」を「空手の日」とすることを宣言する。

 

上記のとおり決議する。

平成17年3月29日

沖縄県議会

 

宣言決議の英訳はこちらへ

空手と縁のある宇栄原
2017.08.15

 首里、那覇、泊という地域は、古来、空手の発祥の地として知られていますが、その他にも多くの地域に武勇伝が存在する。その一つとして、那覇市宇栄原があります。

 宇栄原は、ゆいレール赤嶺駅と沖縄空手会館の近くにある海軍豪公園の間に位置しています。地域の有名どころとして下ヌ御嶽があり、ある資料では、次のように述べられています。

 「この辺りは通称マチガーでと呼ばれています。ここは、小禄では戦後復興がスタートした場所で多くの人がここに住みました。すぐ側にマチガーの御嶽があります。『琉球国由来記』の中に松川(マチガー)という村名は出てくるが、松川の嶽というのは出てきません。ところが殿(1)のところでみると、マチガー嶽の殿というのが出てきます。どうやらここは、松川部落の 殿と嶽が一体となったところと解釈できます。

 

(マチガー)

 

 

 殿というとナー(庭)だけという場合があります。お祭りをする場所ですが、そこに嶽があるということで、ここにはマーニの木、聖なる木が植えられており、聖なる場所であることを表しています。

 昔は、字栄原というところは武士がたくさんいました。その武士達は、毎晩ここで空手の練習をしていたそうです。沖縄の武士というのは、大和の武士と違って、腕っぷしの強い男ということです。」

 別の文献では、故地元の長老の話も記録されている。「宇栄原に、七ケーン坂小(びらぐがー)(2)と言うこうねりくねりの坂道がありました。昔は宇栄原に、そうとう武芸の達者な方がたくさん生まれて、それは困るというので、その七ケーン坂小を改修しました。改修後、宇栄原には武士は生まれなかった」。

 武士が練習していた場所は今、高前原公園として整備されています。

 

(下ヌ御嶽)

 

 

 なおこの字栄原にて、旧暦の625日(3)の直後の日曜日に宇栄原の綱曳きが開催されます。2017年は、8月20日(日)に行われます。勇壮でケンカ綱と呼ばれるような綱引きもありますが、宇栄原の綱曳きは上品で、素朴な行事です。稲の収穫に感謝するお祭りです。

 また地元在住の人による地域巡りツアーもあります。興味ある方は、沖縄空手案内センターへお問い合わせください。

 

脚注:

  1. ここの殿は、殿内のことと思われます。
  2. 推測として、ケーンは「間」のこと、いわゆる1,8メートルのことで、七ケーンは、12,6メートルのことと思われます。
  3. 6月カシチーとは、旧暦の伝統行事の稲の収穫祭です。旧暦の6月25日に付けられているこの行事では、火の神や仏壇に炊いた新米の強飯(カシチー)をお供えします。

 

※公園の住所は、沖縄県那覇市高良2丁目5

 

参考資料:

 おろくの歴史を訪ねる講座(那覇市小禄南公民館、1993年)

 那覇の民話資料(那覇市教育委員会、1984年)