特集記事

礼について(パートII、仲本政博著)
2020.12.22

 武は「禮に始まり、禮に終わる」

 それを日常生活でも実践すれば最高の人生となろう。相手をうやまい尊重する心が大切である。礼儀について「礼」は、単なる頭を下げるだけではありません。演武の成功と無事安全を信じつつ、武の型を編み出した先師に対し、そして観客や、演武場(空気や壁を作った生き物である木)に対し、使用する愛用の武器に対し、そして一緒に演武される方々に対し、そのすべてに礼をすべきである。

 毎朝起きて家族に対し、或いは、学校へ行く生徒や学生同志又は先生方に対し、道中で会う友人知人等に明るい声で朝の挨拶をすると、相手も返事を返して来る。これが社会生活を営む上でかどを立たずおだやか円満な人生を歩むこととなる。

 失礼は、相手を無視することになる。「切捨御免」とは江戸時代に、一般平民、下士町人・百姓などが武士階級に対して無礼なことをした時に斬り捨てられても、とがめられなかった時代の出来事でした。すべての人間関係において「敬のモラール」のはたす役割は大きい。元末、日本の武徳の究極は、「うやまう(敬)」の一点にあった。旧漢字の字体「禮」には神に酒をささげるという意味もあります。角川書店の字源辞典によれば、(1)礼儀作法(礼法・祭礼)(2)儀式(礼服・立太子礼)(3)人に対する敬意のもちかた(失礼・非礼)(4)おれい。感謝の気持ちを表すこと(礼状・謝礼)(5)おじぎ。あいさつ(礼拝・目礼)等が記載されている。

 空手・古武道演武の時、始めと終わりに必ず礼をすることや、武は礼に始まり礼に終わる等、皆さんは礼儀作法を厳しく教えられて来ています。礼は祈りでもあり、心がおちつき、それがつよい力になり素晴らしい演武が実現されてゆく。もし礼を忘れたら、すぐヘタヘタとなるのだ。「士は己を知る人の為に死す」(『史記』)と存る。知ることは信ずることであり、私達は「礼」も常に実行し身をもって毎日習慣と為すべきだ。

 

 沖縄県指定無形文化財保持者

 沖縄伝統古武道保存会 文武館総本部会長

 仲本 政博 

 82歳

 

 ※掲載の都合上、原文を一部加筆・修正致しております。

 パートIはこちら

沖縄空手「環」シリーズ
2020.11.17

 多くの県内道場は活動再開をしております。当案内センターは、コロナ禍の真っ只中で訪沖できない空手愛好家の要望に応えようと、【沖縄空手「環(わ)」シリーズ】を企画しました。

 OKICの活動開始2017年以来、当案内センターを通し多くの受講生を受け入れた師範のご協力のもと、沖縄空手の神髄を紹介する動画を配信します。

 今シリーズの題名「環(わ)」は、「平和の武道」である沖縄空手が巡る、囲む、回るかのように世界中にやがて平和がもたらせるようにとの意味が込められています。また、コンテンツの構想である『言葉と技法「WA」』は、英語の「Word」と「Action」からできた「環(わ)」を意図する「言葉・技法」の短縮形でもある。

 世界の空手愛好家が来沖出来るまでの励みになればと思い制作しています。定期的に公開いたしますので、どうぞ、お楽しみにください。

 

首里・泊手系(しょうりん流)

1、カキエー 小林流 比嘉稔先生

 

2、下段払い 松林流 平良慶孝先生

 

那覇手系(剛柔流)

1、サンチン 剛柔流 池宮城政明先生沖縄伝統空手道振興会事務局長)

 

上地流

1、補助運動 上地流 島袋春吉先生

 

古武道

1、ヌンチャク 古武道 仲本政博先生

礼について(パートI、摩文仁賢栄)
2020.10.05

全空連中央資格審査員

摩文仁賢栄

 

 あらゆる武道、スポーツに、また、日常生活において最も大切なことの一つに礼というものがある。

それは空手道においても同じで、最も大切なことであり、最初に学ばなければならないことである。礼は、単に形式的に頭を下げるだけではなく、先づ自分の心を正して相手に向かい、姿勢を正して礼を行うものである。

 礼について思い出すことだが、われわれ日本人同志なら問題はないが、外国人でこの事で考えさせられたことがあった。

 中南米のある道場で、稽古の初めに行う礼をするために、幹部並びに生徒一同整列し「正坐」の号令で全員正坐「礼」と、ここまでは立派で良かったのだが、肝心の「礼」が悪かった。全員膝の上に両手をのせたままで、頭をかるく前に倒すだけであった。生徒は皆熱心で立派な人達なので、不審に思い、幹部に尋ねたところ、前に指導に当たっていた、日本人の先生がこのような形で生徒の礼を受けていた事が分かった。教える方も、習う方も先づ心を正しておれば決してこのような礼の仕方はしなかったと思う。

 これもある都市でのこと、この土地の大学の学生達と体育館で空手の演武会を開催することになった。会場は早くから観衆がやってきて超満員だった。わらわれが演武する場所もせまく、観衆もわれわれとその距離は二メートル位しかはなれていなかった。最前列には婦人方がずらりと椅子に腰掛けておられた。このままいつものように正坐して正面に「礼」をすることになると、どうしても、そのご婦人方に最敬礼をすることになる。どうも恰好が悪い。私はその時、私が正面に立ち私と生徒の相互間の礼を行う形にした。

 礼も、習慣上、形式的にやるのではなく、時には場所により、方法も一考すべきと思った。

 空手道の型の演武の中に礼を現わした動作も幾つかある。これは慢心を戒めたもので、大勢の面前で演武する際、わが師、先輩方、私の拙い演武を見て、今後共ご指導をお願いしますということを動作で現わしているのである。空手道の教訓に「空手に先手なし」「君子の拳」とあるが、これは無音に拳足をふるい、人を傷つけてはならない、常に紳士としての態度で人に接せよと考えている。このように礼を重んじることによって、高尚な品性と心構えを養成することが空手道の真の目的である。

 

  空手新聞 第93

  「展望車」コーナー

  発行所:空手新聞社

  発行日:昭和52320

 

(写真提供: Karate-do Shito-Kai Canada代表、サム・モレズキ氏

 

1969年、八木明徳範士とスーパーリンペ
2020.06.19

沖縄公開の夕べ

全国特別招待模範演武 <下>

 

1969923日掲載) 

 

空手の普及に努める

八木明徳範士(剛柔流明武舘)

スーパーリンペ

 

 八木さんは中学(二中)へ合格したという発表をうけたとき、さっそく祖父に手をとられて剛柔流の宮城長順先生のところへ弟子入りさせられた。彼の祖父も福建省で漢字や空手を学んでいた。とくに文武にたけた謝名親方の子孫にあたるので、武道は身につけなければいけないとなかば強制的に空手を教え込まれた。

 十四歳のときから、戦後、宮城先生が健在のときまで指導をうけた。宮城先生はたいへんきびしい方で、はじめのころは空手を教えるというより、正座させて一、二時間も話しだけきかす日々でした。そのため精神的にも肉体的にも苦しい事が多く、長つづきする門下生が少なかったという。しかし先生はついてくる者しか育てないという主義だった。

 八木範士は二中の四年生のころからは、久米町のクラブで学生を相手に指導し、戦後は税関の武道場で空手道の普及につとめた。現在は久米町の自宅に明武舘をつくり、剛柔流の後継者づくりにあたっている。

 八木範士は宮城先生から指導をうけたスーパーリンペを演武する。漢字では「一百零八手」と書き、百八の手ともいう。因みに、除夜の鐘も百八回つかれる。剛柔流のスーパーリンペは、最後に教える型ということで、五段以上になってから身につける。演武時間の長い型で、クーサンクーやパッサイのような派手さはなく、たいへん地味な型。八木範士は「本土の剛柔流の道場には、八㍉カメラにおさめたのをみせたことがあるが、こんどの日本武道館での特別演武のときには、多くの空手関係者の目の前で演武し、剛柔流の参考にでもなれば幸いです」とはりきっている。

 全沖縄空手道連盟副会長、剛柔会会長、那覇市久米町出身、五十七歳。

 

 (読者のために、原文を多少加筆する。)

1969年、比嘉佑直範士とパッサイ大
2020.05.22

沖縄公開の夕べ

全国特別招待模範演武 <下>

(1969年9月23日掲載) 

 

誇りをもって披露

比嘉佑直範士(小林流究道舘)

パッサイ大

 

 比嘉範士はがっちりしたタイプの人であるが、しかし少年時代は、猫背で体が弱かった。そこで十七歳のころ、父の友人である城間次郎さんに紹介され、体力づくりのために空手をはじめたという。城間さんから五年間も手ほどきをうけたあと剛柔流の新里仁安先生、また宮平政英先生からも空手道の指導をうけた。

 戦後はパッサイ大、ナイハンチ三段の型を、知花朝信先生にみてもらったのがきっかけで、知花先生のところへ弟子入りした。比嘉範士は戦前は剛柔流、戦後は小林流の指導をうけただけに、いまでも腰のこなし、歩き方などに剛柔流の血が流れているとのこと。

 比嘉範士が公開するパッサイ大は、知花先生の得意の技。比嘉範士もこんどの演武会で誇りをもって披露したいとはりきっている。

 このパッサイ大は、琉球王朝の指南番だった松村宗棍先生がつくった型で「首里手」の代表の型だといわれている。当時の尚喤王(坊頭大主)(1)もパッサイ大のたん練にはそうとうの力を入れていたという。

 比嘉範士は四十年余も空手道の研究にがんばっているが、現在は全沖縄空手道連盟の理事長として、本場空手道の育成面にもかなりの力を入れている。比嘉範士は「沖縄の空手道は世界の脚光を浴びつつある。しかし空手道には、流派の相違などや複雑な問題をかかえ、正直にいって悩みも多い。とくに本土では沖縄の空手観とは逆に試合化の空手が普及している。空手道のこんごの確固たる方向づけもまとめなければいけないが、連盟の組織を強化し、空手道の健全な発展に努力したい」と話していた。那覇市若狭町の出身、五十九歳。

 

メモ

(1)松村家の墓地内の碑には「第二尚氏王統の17代尚灝王、18代尚育王、19代尚泰王、三代に亘たり王府の御側守役として仕えた」とある。おそらく尚灝王のことです。

 

特集のトップページに戻る