沖縄空手の発生について

 空手の発生についてはこれまで多くの研究が発表されています。しかし、空手がいつ発生し、体系化されてきたかについてははっきり断言できません。文献史料が乏しいのも原因の一つです。1994年沖縄県教育委員会は、これまでの起源論研究の成果を整理した。

  ①空手はもともと「手」(ティ)と呼ばれる沖縄在来の武術があり、それに中国武術等が影響を与えて発生した。

  ②空手の発生は尚真王 (14771526在位)の時代、諸按司の首里集住と刀狩りの実施及び薩摩の琉球入り(1609)後の禁武政策等の影響により発生した。

  ③察度の時代、中国との交易が開始された時 (1372)以後、中国武術が導入され、それが沖縄の風土にあうように形式化され、発生した。

 以上の三つの観点から空手の発生について論じられるのが一般的です。

 

首里手、泊手、那覇手について

 流派が生まれるまでは、首里手、那覇手、泊手として区分があったとよく近代文献に出てきますが、この三つの「手」という表現は、1927年に初めて使用されました。

 沖縄県柔道有段者会の招きで、嘉納治五郎講道館館長が沖縄を訪れ、歓迎行事の一環として、空手演武会が開催された。世話役は、「沖縄唐手クラブ」の宮城長順と摩文仁賢和が努めた。このとき、便宜上「首里手、那覇手、泊手」という名称が使用された。演武者は、花城長茂、久場興作、喜屋武朝徳、宮城長順、摩文仁賢和など。

 

諸流派の発生

 現在の諸流派は近代以降に成立したものがほとんどです。

 宮城朝順(1888~1953)の高弟の一人新里仁安は、193011月、明治神宮で開催された奉納武道型大会に出場して、三戦を演じた。その際に流派名を問われたことがきっかけとなって、宮城は沖縄伝『武備志』の〈拳之大要八句〉の一句「法剛柔呑吐 身随時応変」(法は剛柔を呑吐し身は随時応変す)から剛柔流と名づけた。空手の流派としては最も古い。

 唐手佐久川・松村宗昆(棍)の流れをひく糸洲安恒に師事し、1919年首里鳥堀に道場を開設して指導を始めた知花朝信(18851969)は意欲的に普及に尽力し、1933年には自派を小林流(しょう りんりゅう )と命名し、1948年には沖縄小林流空手道協会を創設しました。

 福建省福州13年間、南派少林拳の達人周子和に師事し、修行を重ねた上地完文 (18771948)は、帰郷後和歌山に転出し、1932年パンガイヌーン流空手術研究所を開設し、本格的指導を開始しています。1940上地流と改名し、現在に至っています。

 長嶺将真(1907~1997)を始祖とする松林流は首里手中興の祖である松村宗昆(棍)と泊手の中興の祖である松茂良興作の「松」の一字をとり、1947年に松林流と命名しました。

 通称チャンミーグヮーと親しまれた喜屋武朝徳(18701945)は読谷村の比謝川付近に移り住み、多くの門弟を育てました。その中から少林流中部少林流少林寺流などの会派が生まれました。

 また、祖堅方範(1870~1945)は、松村宗昆(棍)の孫のナビータンメーに師事し、後に松村少林流と命名した。

 中村茂(18911969)は糸洲安恒、花城長茂に師事し、後に沖縄拳法と命名し、本島北部を中心に普及した。

 那覇手、首里手の両方の影響を受けたり、取り入れたりしている会派に一心流があり、那覇手と泊手の両方の系統を継承する会派として剛泊会(沖縄剛柔流・泊手空手道協会)があります。その他一子相伝として受け継がれてきた会派に劉衛流本部流等があります。

 太平洋戦争後は流派の統制がゆるやかなものとなり、流派から会派が生じ、また会派を結成しない道場も生じられた。

 2017年、沖縄県空手振興課の調査によると、県内の道場の数は約400です。なお、流会派の数は100をこえるという。

 

空手の目的

 今や、空手は単なる沖縄の空手ではなく、世界の空手道として普及発展していることは発祥地に生まれ育った沖縄県民の大いに誇りとするところであります。しかし、空手を学校教育の中にとりいれ、子供達に指導する目的はとこにあるのだろうか。沖縄県はその目的について三つの点から考えています。一点目はスポーツとして健康な肉体を育成することです。二点目は武術として護身の法を身につけることです。三点目は空手の修業を通して「心」の鍛練をすることです。これら三つの目的は不離一体のものであり、空手を指導したり、修業したりする時の重要な観点といえます。

 

参考文献:

  1. 空手道・古武道基本調査報告書、沖縄県教育委員会(平成6年・1994年)
  2. 沖縄空手交流推進事業報告書、沖縄観光リゾート局(平成17年・2005年)
  3. 沖縄空手・古武道事典、柏書房(平成20年・2008年)

(敬称略)