特集記事
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2023.09.19
今日の空手 - 吉里弘、誕生す!
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2023.08.29
今日の空手 - ホノルル唐手青年会、結成す!
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2023.08.15
今日の空手 – 仲村渠貞一、誕生す!
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2023.08.03
今日の空手 - 野間清治、沖縄で挙式す!
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2023.07.18
今日の空手 – 屋部憲通、ハワイで普及活動をなす!
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2023.07.04
今日の空手 - 史上初、「唐手部」成立す!
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2023.06.20
今日の空手 - 義村朝義、尚本家へ参内す!
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2023.06.06
今日の空手 - 県立一中「唐手部」復活す!
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2023.05.26
「今日の空手」の連載が始まります
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2022.12.12
豊見城市内の空手道場MAP
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2022.11.10
南風原町内の空手道場MAP
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2021.12.20
首里城で王様の前での武芸披露
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2021.03.08
民話:トラが木登りの出来ない理由
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2020.12.22
礼について(パートII、仲本政博著)
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2020.11.17
沖縄空手「環」シリーズ
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2020.10.05
礼について(パートI、摩文仁賢栄)
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2020.06.19
1969年、八木明徳範士とスーパーリンペ
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2020.05.22
1969年、比嘉佑直範士とパッサイ大
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2020.05.08
1969年、島袋善良範士とアーナンクー
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2020.04.20
1969年、久志助恵範士とワンカン
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2020.04.14
1969年、兼島信助範士正&長嶺将真範士の紹介
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2020.04.09
記事「80翁も〝エイヤッ!〟」(沖縄タイムス)
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2020.04.09
記事「一挙一動に感銘」 (琉球新報)
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2019.12.03
古武道⑨ 仲井間憲孝並びに内間安勇
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2019.11.07
古武道⑧ 喜屋武真栄並びに兼島信栄
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2019.10.29
古武道⑦ 石川逢英並びに比嘉清徳
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2019.10.08
古武道⑥ 野原蒲一並びに高良茂
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2019.09.13
糸洲安恒写真の比定について
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2019.09.02
県民の安全安心を守る空手の警察官たち
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2019.07.02
古武道⑤ 祖堅方範並びに城間大盛
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2019.06.08
古武道④ 兼島信助並びに知念正美
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2019.06.01
古武道③ 中村茂並びに比嘉勇助
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2019.05.24
古武道② 伊礼松太郎並びに仲村平三郎
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2019.05.14
古武道① 喜納昌盛と新城平三郎
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2019.04.08
「刀狩り」に疑問
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2019.01.21
京阿波根実基、宝剣と空手
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2018.05.04
上地完文翁の銅像除幕式
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2017.12.26
松茂良興作の足跡を歩く
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2017.10.20
松村宗昆の遺墨
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2017.10.14
沖縄師範学校で前川棒の披露
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2017.09.08
「空手の日」宣言決議について
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2017.08.15
空手と縁のある宇栄原
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2017.07.14
沖縄空手の素晴らしさ
9月12日、沖縄県空手振興課による新しい企画展「空手を伝え、広める!-近代の空手教師たち-」が沖縄空手会館の企画展示室で公開された。
公開を機に、県空手振興課非常勤職員で空手の研究に務める仲村顕氏は、企画展のオープニングイベントとして「糸洲安恒写真の新たな比定について」を表題としたレクチャーを行った。下記では、当日配られた資料を基に発表の内容を紹介します。
今年3月に開催された沖縄空手アカデミーでの発表(参考:糸洲安恒~写真の再検証)後、仲村氏は継続的に写真資料の収集・確認作業を行い、3月下旬頃に高知市民図書館(オーテピア高知図書館)の中城文庫に沖縄関係史料が多くあることに気づいた。
中城文庫は、高知の旧家・中城家旧蔵資料から成る文庫です。この家の故中城直正氏(1868-1925)は、沖縄県中学校の教師を務めていた方で、仲村氏が確認している限りに於いて、沖縄人以外で最初に唐手を修めた人物です(1)。
同文庫には、45点の沖縄関係の写真があり、その内、「沖縄県立中学校教員生徒」という学校関係の写真は5枚見つかった。
そこで仲村氏は写っている人物に的を絞り、細かい調査を行い、各写真の年代を明らかにしていった。
結論から言いますと、5枚の写真は、1903年3月から1907年3月の同校の第15回卒業式から19回卒業式のものであることが分かった。尚、写真の年代を決めるヒントになったのは、1905年から3年間英語の嘱託教授であったヘンリー・アモア氏(2)だったという。
沖縄県立中学校の沿革によると、糸洲を聘し唐手の教授を始めたのは1905年1月からで、卒業写真に写る可能性があるのは1905年3月の第17回卒業式以降のものと推測されます。そして、見つかった5枚の写真のうち3枚が対象写真であり、そのうち2枚には、糸洲と比定する人物は写っておりません。
1831年生まれの糸洲安恒は、当時74歳(数え75歳)で、その年齢の方と見て無理のない人物を一人だけ上げることがでた。1905年付の第17回卒業写真の前列二列目の右端に位置し、右手に杖を突いているように見える人物が糸洲安恒と仲村は判断した。
しかし1908年以降卒業写真に当該人物の確認はできていない。
ところで、糸洲は「杖にすがり腰は弓なりのハ十才の御老体」であったと、1917年卒業の神村孝太郎氏は回想録に綴っている。この条件を満たす人物は他に見当たらないので、神村の回想は、「これが糸洲安恒その人であろう」という蓋然性を、ますます高めるものである。
レクチャー会場に、糸洲安恒のひ孫にあたる糸洲昇氏(76歳)が来場しておりました。氏は空手家ではありませんが、「曾祖父は争い事の嫌いな人でしたと聞いています。写真が見つかってうれしい。ぜひ、早めに確定してほしい」とコメントを残した。
(1)仲村氏の調査によると、中城氏は、1902年から1907年まで在沖しておりました。仲吉良光の「唐手体操の始祖一中の誇/―其の動機を作つた我等の/級友松田君をしのぶ―」(『養秀』35号(1934年所収))に「近代唐手の大家糸洲翁を聘して唐手を学校に移入させることにより最初はまず職員に稽古させたものだが時の教頭中城先生の熱心な稽古振りなど全校生の評判となったものだ」と記載されています。また、山内盛彬「空手随想」(月刊空手道)1巻3号、1956年所収)にも「中城という小柄で不器用の人が教頭を勤めていた。その人の空手たるやまるで蝿を払うような手つきであったが、その人の熱心さに心を打たれた」とある。
(2)那覇市市民文化部文化財課が那覇市泊にある外国人墓地に建てた案内板によると、ヘンリー・アモア氏は英国人で、当時1908年沖縄県立中学校の英語教師で、この地で亡くなり墓地に葬られている。墓碑には英語で、「誕生1840年6月20日、没1908年2月16日、沖縄県立中学校の教師」と刻まれている。
※1905年の「1905年3月の第17回卒業式」は、高知市民図書館の所有ものであることから掲載していません。ただいま掲載に向けて調整中です。
1961年11月22日
古武道⑤
祖堅〝松村〟の後継者
祖堅方範(70歳)
銷鎌
明治二十四年西原村我謝に生まれる。現在少林流空手・古武術師範として門弟の指導にあたっている。
祖堅さんが空手を始めたのは十二歳のとき、母カミーさんの兄松村さん(三代目・首里)から手ほどきを受けた。男の子が年ごろにもなってぶらぶらしていたんじゃろくな人間にはなれないと空手を仕込まれたというが、まだ子どもであった祖堅さんには当時のけい古はだいぶ苦しかったようだ。十二歳のとき親元を離れてから松村道場に住み込み、朝は門弟より早く起きてあさけい古、夜もおそくまでけい古をしたという。最初は軽いけい古であったが、上達するにしたがってゲタの脱ぎ方から逃げるけい古までやった。「空手に先手なし」といわれているように空手を修業するものは、「いかにして逃げるか」も研究しなければいけないと語っていた。
沖縄全島の武術家を一堂に集めた演武会が大正十三年那覇の大正劇場で行なわれたといわれているが、祖堅さんも喜屋武朝徳(チャンミー小)本部朝祐(本部サールー)らとともに出演した。
祖堅さんは武歴五十八年、その間宮古やアルゼンチンにも渡ったが武術に精進し戦後故郷の西原村我謝に松村先生の正統な後継者として少林流と名乗り、道場を開いた。
今までに教えた弟子の数は約二百人。現在の約二十人の門弟が毎日けいこに励んでいる。こんどの発表会では鎖鎌を演武するが弟子からも六人出演する。
(現住所西原村我謝)
大屯棒を演ずる城間
城間大盛(77歳)
大屯棒
明治十八年大里村字大城に生まれる。幼いころ、部落の祭りで青年たちが勇敢な姿で、棒術を演武するのを見て興味をもった。
十七歳になって村で棒術を教えている普天間大越先生へかよいはじめた。運動神経に恵まれていたので先生も「君はきっとうまくなるよ」と、人一倍かわいがってくれた。それから終戦後の二、三年までつづけた。「年には勝てないもので、いまでは棒を振るのがやっとですよ・・・」と、若いときを思い出して、じれったい表情で語った。
昭和三年、与那原国民学校で行われた今上天皇の後大典記念演武会で、演武したこともある。そのときの演武が唯一の思い出になっている。
「部落の青年たちにも、棒術を習って体をきたえるようにといってきたが、今の若いのは棒なんて見向きもしない。いつでも一人で楽しめるし、いなかではもってこいの運動ですがね。こんどの公演でも部落の青年に分るのがいたら、若いのにさせるが、だれもいなくて困っている。私は大屯棒の手数だけ披露するのがやっとですよ」とひかえめに話している。
長男の盛光さんには子供のときから教え、大屯棒を身につけているが、現在は静岡県の沢津市に住んでいるという。自分のむすこにはわがままがきくから、月夜には夜中に起こして、丘でよく教えた。
「こんど古武道の発表会があって、私が大屯棒をやると手紙で知らせたら、むすこも喜んで体に気をつけてしっかりやるようにと激励している」と語り、そのあと床の間に置いてあった棒を取り出し〝大屯棒とはこんなものですよ〟と演武して見せた。
(現住所大里村字大城)
【沖縄タイムス】1961年11月21日
古武道④
初公開のドーチン
兼島信助(64歳)
ドーチン
明治三十年与那原町に生まれる。二代目の町長で、現在は与那原町議会長である。忙しい議会活動のかたわら、尚武舘道場を開き、後輩の指導に余念がない。十五歳のときから、本部朝祐先生(本部サールの兄)らに指導をうけた。以来、五十年余りの空手道生活をつづけている。今度の発表会ではドーチンを演ずる。
ドーチンは沖縄で未公開の型で、初めて披露されるわけだ。兼島氏の奥技の一つに数えられ、十七歳のころ台湾へ渡り、陳判同先生から教わったという。
空手道ひと筋に打ち込んできた人だけあって、公演をまえに意欲と自信に満ちた表情を見せている。とくに古武道の保存に力を入れ、比嘉会長と共に、古武道界の権威者を集めるのに東西奔走、古武道復活の推進力となっている。
「郷土の古武道が滅んで行くのを見ると、寂しくてたまらない。権威者がなくなって復活できないのもある。こんどの公演で権威者が演ずる型をフィルムに収めて、保存するつもりです。郷土をになう若い人たちを、古武道で豊かな精神と、健康な体をもった人に育てたい・・・」と、抱負を語っている。
しらがまじりで薄くなった頭髪だけが老年を思わせるが、キビキビとした動作、話すのも活気にあふれている。空手を体得してから、病気になったことは一度もないというがっちりした体格で、初めて公開されるドーチンをやって見せた。「息切れしてぜんぜんですね」と、汗をふきながら、空手道がいかに立派な体と精神をつくるかを、説明した。
(与那原町森下区三五)
祖父に棒術を習う
知念正美(63歳)
佐久川のコン
祖父三郎さんから佐久川のコン(棒術)を直伝された。
「佐久川のコン」は支那からつたわってきたといわれ、沖縄にその使い手は少ない。知念さんは十七歳のときからけい古をはじめた。子どものときは弟(正昌さん)といっしょに空手をならっていたが、けい古のムリがたたって棒に転向した。その理由は空手を休んでいる間に弟の正昌さんが上達したからだという。弟に負けたくやしさに一時は武術をあきらめたというが、祖父のすすめで棒術を始めた。知念さんの祖父三郎さんは棒の使い手として知られ、三郎さんの技を「ヤマンニーの型」といわれていた。
佐久川のコンも祖父三郎さんの特技の一つ。打つと見せかけてつき、つくときは、棒をひねりながらつくというふうに、他の棒術とは多少違う。知念さんは祖父から手ほどきをうけ、佐久川のコンの正統な跡継ぎとしてこんどの演武会は佐久川のコンの演武をするが、「棒術は祖父の生涯をかけた武術であり、祖父の型をのこす意味でもこんどの演武会はがんばりたい」と語っていた。佐久川のコンは真玉橋の嘉数部落にのこっているが、今は忘れられた武術として使い手は少なく、わずかに古老たちに受け継がれているだけである。
知念さんはこんどの発表会いあたって「比嘉会長のよき相談相手になり、こんごも古武術のためにつくしたい」と語っていた。
沖縄伝統古武道保存会文武館が公開した当時の動画:
https://www.youtube.com/watch?v=6YSyJjtBwMk&feature=share&fbclid=IwAR3z6GeXqOLPaHW0dENUElSG96gIFABih-YXSUY0YsJQWTCbcVTiyvBD4T8
【沖縄タイムス】1961年11月17日
古武道③
チャンミー小らと修業
中村茂(67歳)
ニセシ
明治二十七年名護町に生まれる。十五歳のとき沖縄県立中学校に入学、空手部に入部して空手を習い始めた。中村さんは子どものときから空手に非常に興味を持ち、おじいさんや先輩たちから武勇伝を聞いたという。そのため人一倍熱心で空手の上達も早かった。こんどの発表会では「ニセシ」を演武するがこれは通称〝国吉のタンメー〟から習ったもの。型としてはそれほど変化はないが沖縄に使い手は少なく貴重な技とされている。中村さんは昔チャンミー小や本部サールーといっしょに空手の修業をしたというだけあって根からの空手マン。空手のほかに棒術、サイなども心得ている。
しかし、五十余年の武術生活にはいろいろな苦難があった。寒い冬の夜道をけい古にかよったり、旅回りをして空手の修業をしたという。そのような苦労が中村さんのひととなりをつくり何事にも屈しない不とう不屈の精神力を養ったようだ。いま自宅で道場を開いており弟子の数は千人にのぼるという。
現在、沖縄の空手には、いろいろな流派があるが、中村さんは「昔は空手に流派はなかった。沖縄の空手を発展させるには各流派を統一しなければいけない」と語っていた。
中村さんの道場には「人格完成」と大書した額がかかげられており、門弟たちも師の教えにしたがって日夜けいこに励んでいる。
(名護町489番地にすむ)
親子でテンベーを演武
比嘉勇助(70歳)
テンベー
古武道が忘れられて行き、今では〝テンベー〟を演じうるのは、比嘉さんだけである。テンベーの保存につくす比嘉さんの役目は大きい。「テンベーが滅ぶのではないかと、心細い思いをしていた。こんど古武道関係者がテンベーを復活すると話していますので、喜んでいる。テンベーのできる人が、みんななくなって、惜しまれてならない。私は年をとっていますが、曲がりなりにもテンベーを演じたい・・・」と、意欲を見せている。
テンベーとはかさと刀を持つ人とヤリを持つ人との戦いである。公演では比嘉さんがかさと刀を持つ人になり、五男の勇福さんがヤリの使い手を演ずる。親子意気の合ったコンビでテンベーの復活につとめるわけだ。とくにかさと刀の使い手は、相手の上を自由自在に飛ばなければいけない。人の上を飛ぶむずかしい役があるから、テンベーはあまり普及されないといわれている。「僕が若いころは、君らの上を飛ぶのは、なんでもなかった」と、飛ぶようなマネをしながら方言で語った。がっちりと肉のひきしまった小柄なタイプで、たしかに若いころは人の上を自由自在に飛んだろうと、思わせる元気なおじいさんである。
明治二十四年知念村久手堅に生まれ、明治四十四年大分歩兵七二連隊に入った。大正二年に除隊した。除隊後二十四歳のとき首里の新垣先生に指導をうけたという。歩兵隊でのきびしい訓練が、テンベーを習うのに大いに役立ち、習得するのが早かった。新垣先生のなきあとは、知念、玉城、佐敷の青年に指導したが、苦しい試練がともなうので、みんなあきらめてしまって、相手になるのは息子の勇福さんだけである。いそがしい畑仕事のかたわら、比嘉さんはテンベーの公演を目ざして、張り切っている。