吾が沖縄の祖先が残した空手道は一千年の長い歴史に培かわれ、幾多の重圧に屈する事なく「空手に先手なし」の真理を発見したのであります。「空手に先手なし」の真理が現在も将来も変る事がなく発揮された時に世界の真の平和は生まれると確信するものであります。
空手道の良さは
一、空手は一人ででも稽古が出来るしまた多勢一緒にでも練習ができる。
一、空手は子供でも老人でも男でも女でも誰にでも自由に稽古ができる。
一、空手の稽古は各自の体力に応じて激しくも軽くも自由にできる。
一、空手の稽古は狭い所でも一向に差支ない。
一、空手は胆力のないものに胆力を与え根性のないものに根性を与へる。
一、空手は健康を増進し仕事の能率をも倍加させる。
一、空手は人生を明朗化して寿康両全を保証する。
このような理想的な文化財が世界のどこの国にあるでしょうか。こんな小さな島国で長い歴史を通じて「真理は風節に耐える」と云う先人の言葉通り現代に生きつづいてきたのが不思議なぐらいです。
1967年12月10日
第一回空手道・古武術演武大会
主催:全沖縄空手道連盟
全沖縄空手道連盟会長 長嶺将真
会長挨拶からの抜粋
これから沖縄小林流空手道協会・志道館無贄塾の館長、県指定無形文化財保持者真栄城守信先生による「松村のパッサイ(パッサイ大)」の分解の動画を紹介いたします。
下記の動画は、日本本土で沖縄空手の普及に励んでいる沖縄小林流空手道協会所属の先生方によりユーチューブに公開されたものです。
合わせて同協会所属の松門正先生による型の演武も紹介します。
首里・泊手系 パッサイ大(松村のパッサイ)
https://okinawa-karate.okinawa/kata-movie/naha-shuritekei-passai-dai/
松村のパッサイ(型)部分分解➀~沖縄小林流空手道
https://www.youtube.com/watch?v=6jDn13V_M-A&t=6s
松村のパッサイ(型)部分分解②~沖縄小林流空手道
https://www.youtube.com/watch?v=wmxuEKMCiPQ
松村のパッサイ(型)部分分解③~沖縄小林流空手道
https://www.youtube.com/watch?v=bUA5nFxb2ME
松村のパッサイ(型)部分分解④~沖縄小林流空手道
https://www.youtube.com/watch?v=E7bdDh5mt6g
松村のパッサイ(型)部分分解⑤~沖縄小林流空手道
https://www.youtube.com/watch?v=RQEFHlrqoO0
松村のパッサイ(型)部分分解⑥~沖縄小林流空手道
https://www.youtube.com/watch?v=20z7DL5JuJ4
松村のパッサイ(型)部分分解⑦~沖縄小林流空手道
https://www.youtube.com/watch?v=UJO60BDLyNQ
松村のパッサイ(型)部分分解⑧~沖縄小林流空手道
沖縄公開の夕べ
全国特別招待模範演武 <下>
(1969年9月23日掲載)
空手の普及に努める
八木明徳範士(剛柔流明武舘)
スーパーリンペ
八木さんは中学(二中)へ合格したという発表をうけたとき、さっそく祖父に手をとられて剛柔流の宮城長順先生のところへ弟子入りさせられた。彼の祖父も福建省で漢字や空手を学んでいた。とくに文武にたけた謝名親方の子孫にあたるので、武道は身につけなければいけないとなかば強制的に空手を教え込まれた。
十四歳のときから、戦後、宮城先生が健在のときまで指導をうけた。宮城先生はたいへんきびしい方で、はじめのころは空手を教えるというより、正座させて一、二時間も話しだけきかす日々でした。そのため精神的にも肉体的にも苦しい事が多く、長つづきする門下生が少なかったという。しかし先生はついてくる者しか育てないという主義だった。
八木範士は二中の四年生のころからは、久米町のクラブで学生を相手に指導し、戦後は税関の武道場で空手道の普及につとめた。現在は久米町の自宅に明武舘をつくり、剛柔流の後継者づくりにあたっている。
八木範士は宮城先生から指導をうけたスーパーリンペを演武する。漢字では「一百零八手」と書き、百八の手ともいう。因みに、除夜の鐘も百八回つかれる。剛柔流のスーパーリンペは、最後に教える型ということで、五段以上になってから身につける。演武時間の長い型で、クーサンクーやパッサイのような派手さはなく、たいへん地味な型。八木範士は「本土の剛柔流の道場には、八㍉カメラにおさめたのをみせたことがあるが、こんどの日本武道館での特別演武のときには、多くの空手関係者の目の前で演武し、剛柔流の参考にでもなれば幸いです」とはりきっている。
全沖縄空手道連盟副会長、剛柔会会長、那覇市久米町出身、五十七歳。
(読者のために、原文を多少加筆する。)
ゆんたんざむんがたい(読谷山物語)の民話が公開されています。その中に首里・泊手の拳聖とされるチャンミーグァーこと喜屋武朝徳の民話が紹介されています。
https://www.youtube.com/watch?v=g9MHSPcmEAM
尚、同様なエピソードは嘉手納町教育委員会発行「嘉手納町の先人たち」(1993年発行)にも紹介されている。
18ページにわたる同書内の章「世界にほこる沖縄の空手 - 喜屋武朝徳」では、このような話が書かれています。
「比謝橋のほとりに家を構えた朝徳は、港から那覇の港(トゥンドー)の倉庫に荷物をはこぶ仕事をはじめることにしたのです。馬車で荷をはこぶので「馬車持人」(バシャムッチャー)とよばれていました。馬車持人の仕事は、とてもきつく重労働です。それだから、馬車持人は荒くれ者が多く、一癖も二癖もある大男がほとんどでした。馬車持人同士のいさかいもたえませんでした。那覇までの道中、道はばがせまいところではお互いにゆずろうとせず、あげくのはてにけんかになります。倉庫につくと、順番をあらそっていさかいは始まります。荒くれものの大男同士、それぞれに腕には自信を持っていました。」
その後、同様の与那原の大男とのやり取りも紹介されていますが、喜屋武朝徳は、米ふくろではなく砂糖ふくろを足でけり上げたではなく、六尺棒で運んだと語られている。
沖縄公開の夕べ
全国特別招待模範演武 <下>
(1969年9月23日掲載)
誇りをもって披露
比嘉佑直範士(小林流究道舘)
パッサイ大
比嘉範士はがっちりしたタイプの人であるが、しかし少年時代は、猫背で体が弱かった。そこで十七歳のころ、父の友人である城間次郎さんに紹介され、体力づくりのために空手をはじめたという。城間さんから五年間も手ほどきをうけたあと剛柔流の新里仁安先生、また宮平政英先生からも空手道の指導をうけた。
戦後はパッサイ大、ナイハンチ三段の型を、知花朝信先生にみてもらったのがきっかけで、知花先生のところへ弟子入りした。比嘉範士は戦前は剛柔流、戦後は小林流の指導をうけただけに、いまでも腰のこなし、歩き方などに剛柔流の血が流れているとのこと。
比嘉範士が公開するパッサイ大は、知花先生の得意の技。比嘉範士もこんどの演武会で誇りをもって披露したいとはりきっている。
このパッサイ大は、琉球王朝の指南番だった松村宗棍先生がつくった型で「首里手」の代表の型だといわれている。当時の尚喤王(坊頭大主)(1)もパッサイ大のたん練にはそうとうの力を入れていたという。
比嘉範士は四十年余も空手道の研究にがんばっているが、現在は全沖縄空手道連盟の理事長として、本場空手道の育成面にもかなりの力を入れている。比嘉範士は「沖縄の空手道は世界の脚光を浴びつつある。しかし空手道には、流派の相違などや複雑な問題をかかえ、正直にいって悩みも多い。とくに本土では沖縄の空手観とは逆に試合化の空手が普及している。空手道のこんごの確固たる方向づけもまとめなければいけないが、連盟の組織を強化し、空手道の健全な発展に努力したい」と話していた。那覇市若狭町の出身、五十九歳。
メモ
(1)松村家の墓地内の碑には「第二尚氏王統の17代尚灝王、18代尚育王、19代尚泰王、三代に亘たり王府の御側守役として仕えた」とある。おそらく尚灝王のことです。