沖縄公開の夕べ
全国特別招待模範演武 <中>
(1969年9月21日掲載)
身軽な動作の島袋氏
島袋善良範士(少林流聖武舘道場主)
アーナンクー
五尺たらずの小さい男。幼いころから空手が好きで、先生が職員室に行っている間に、教室のカベをマキワラ代用にして、穴をあけるのを楽しみにしていたやんちゃな生徒だったとのこと。昭和八年、首里市久場川から、現在の北谷村謝苅部落に移住した。十七歳から謝苅で菓子の卸し業をするかたわら、当時、嘉手納村の比謝橋に住んでいた空手道の達人といわれた喜屋武朝徳先生の自宅をたずねた島袋範士は「二十四歳まで八年間も、自転車でかよって先生の指導をうけたが、当時の苦しい空手生活が若いころの楽しい思い出です」と語る。
謝苅で少林流聖武館道場を開いているが、地域がら外人の門下生も多い。外人はデラックスな乗用車で道場玄関へ横づけ。島袋範士は「時代の相違だね。われわれの若いころには夢にもみなかった。道場がよいだよ」と、小さな体ででっかい外人たちも鍛えている。長男の善保君(二十七歳)も練士の腕前。外人商社に勤務するかたわら、晩は父のアシスタントとして門下生の指導に余念がない。
島袋範士は喜屋武先生から手ほどきをうけたアーナンクーを演武する。アーナンクーはもっとも機敏の動作がモットーなようで、島袋範士のお気に入りの型。迫力に富んだ演技というより、島袋範士の身軽な動作でのアーナンクーの演武は、小柄な人に注目されるのではないか。六十一歳。
【訂正】上の長嶺範士の紹介で長嶺範士は松茂良興作、松村宗棍の両氏から指導をうけたとあるのは、両氏の直弟子の本部朝基、喜屋武朝徳の両氏から指導をうけたの誤りでした。
追加情報:
島袋善保氏とダン・スミス氏著 『Shorin Ryu Seibukan - Kyan’s Karate』には、「27歳まで空手を始めなかった。(...)1945年4月沖縄戦が始まるまで鍛え続けた」。
室町時代、今から五~六百年前の能役者、世阿弥の風姿花伝の芸術論に
「真(まこと)の花」と「時分(じぶん)の花」という素晴らしい言葉が残されております。
端的に申し上げると、時分のお花は「その時限りの魅力」に対して真の花は「決して散ることのない魅力」と表現される場合があります。
そこで、この世阿弥の芸術論と空手道に合い通じる深い哲学があることを申し上げたい。
折しも、沖縄の空手が東京オリンピックの正式種目となり、関係者は大変喜んでいるようでありますが、これを契機に指導者の皆さんには、空手道の本質をしっかりと掴み、後世に引き継ぐと同時に、本質と発祥の誇りを全世界に発信することを切に願っております。
現今の県内の空手指導者たちには、伝統空手とスポーツ空手を推進する団体があるように見受けられます。
スポーツ空手は文字通り若さ漲るパワーや演技で、それは見るものを魅了するもので「時分の花」に例えられます。それはややもすると勝負にこだわり、金メダルという名誉や金銭に結び付きやすい傾向にあるのではないかと思われます。
一方、たとえ若い時に時分の花を咲かせた後も、生涯に亘りたゆまぬ努力を重ね、磨き抜かれたところから発する、言うに言われぬ美を発するのが「真の花」であり、風姿花伝の芸術論と見事に一致している事に、卓見した世阿弥の言葉だと感服しております。
真の花・・・「奥妙は錬心にあり」
伝統空手は単なる技や勝負ではなく、空手道という厳しい鍛錬・修行をする中で人格を磨き、心・技・体の一如を目指すものであります。
この「真の花」という言葉には深い哲学があり、禅の心があると着眼しております。
また、歴史上、かの柳生宗矩や山岡鉄舟など、皆この真の花を具現させた人達です。
スポーツ界の金銭や名誉・権力がはびこる中で、スポーツ空手を全く否定するものではありませんが、物に囚われて心を失っている今日、沖縄の伝統空手の本質を再認識し、沖縄の文化や教育発展に寄与してもらいたいと思うのであります。願わくは、沖縄の空手指導者たちが、この世阿弥の哲学の一端にでも触れて、より深く追求し、精通されんことを期待するものであります。
某禅僧の手記
沖縄公開の夕べ
全国特別招待模範演武 <中>
(1969年9月21日掲載)
空手界の理論派
久志助恵範士(松林流道場師範)
王冠
長嶺将真範士の直弟子である。久志範士は沖縄相撲が特意だったが、長嶺範士とは那覇商業の同期生。そのころすでに空手の修業に専念していた長嶺氏の再三のすすめで、久志氏はスポーツ寿命の長い空手に魅せられたという。以来、長嶺氏の指導をうけ、現在は長嶺道場で、松林流師範として後輩の指導に情熱を傾けている。
がっちりした体力に恵まれ、戦前は波之上奉納相撲大会で、三度も優勝した力士。空手道においても、素質があっただけに人一倍の上達をみせた。昭和十九年には武徳会の沖縄支部の推せんで、京都で開かれる称号審査会に行くことになっていたが戦争でフイになった。沖縄空手道界の理論派ともいわれ、久志範士の空手道における文筆活動も、多くの関係者からつねに注目されている。
本土のように空手道の試合化は、空手の真髄を失わせるものと、批判の目を向けているが、演武会では得意の王冠(ワンクヮン)を披露する。王冠は〝泊系の手〟だといわれているが作者は不明。しかし古い歴史をもつ型だといわれている。というのは糸数宗綱氏がつくったピンアンなどの新しい型は、左から演武がはじまるが、王冠は公相君のように右からはじまるので、古い型だと推測されている。
巻手(マチディー)が多いのが特徴のようで、突いてきた手を逃がさずに必殺の一撃を加えるという。とくに体の大きい人に適する型といわれ、久志範士のダイナミックな演武が興味を引く。那覇市泊出身、六十一歳。
注意:記事の後半「身軽な動作の島袋氏・島袋善良範士・アーナンクー」は後日公開いたします。
1969年10月10日、日本武道館において全日本空手道連盟主催の「第1回全日本空手道選手権大会」が開催されました。
その際に東京の会場にて、発祥の地・沖縄から沖縄空手の重鎮らが全国特別招待模範演武「沖縄公開の夕べ」を行いました。
演武に先だって9月25日に、沖縄タイムスホールで演武が行われた。この演武を機に、3回に分けての特集が沖縄タイムスに掲載され、次の大家が紹介されました。
沖縄タイムスの許諾を得て、沖縄空手にとって財産であるこの連載を紹介いたします。
1969年9月20日掲載:「沖縄公開の夕べ」(上)
1969年9月21日掲載:「沖縄公開の夕べ」(中)
1969年9月22日掲載:「沖縄公開の夕べ」(下)
比嘉佑直(小林流)/八木明徳(剛柔流)