記事「空手を伝え、広める!」が掲載
2020.03.10

 

 1985年から活動する一般社団法人 沖縄しまたて協会(旧名「沖縄建設弘済会」は、建設情報誌「しまたてぃ」を編集・発行しています。創刊は1996年、季刊(1月・4月・7月・10月)で3,300部を発行。広範な内容の地域情報や建設産業を取り巻く「新しい変化」に対応した情報誌です。

 91号(2020年1月)では、沖縄県文化観光スポーツ部空手振興課の崎原恭子さんと仲村顕さんによる記事「空手を伝え、広める!」(記事のPDF)が記載されました。

 

沖縄空手アカデミーの研究報告
2020.02.14

 

 昨年度から沖縄空手振興課は、「沖縄空手アカデミー」を開催しています。前年度の研究報告が振興課のウェブサイトに公開されたことをお知らせいたします。

https://www.pref.okinawa.jp/site/bunka-sports/bunka/karate/okinawakarateacademy.html

沖縄県警察学校で段位審査会
2019.09.02

 8月29日に、石川市にある沖縄県警察学校で行われた初めての初段審査会についての記事を掲載しました

「刀狩り」に疑問
2019.04.08

 2019年37日・8日琉球新報には、『よくわかる沖縄の歴史-社会変化を読み解く-第8話、尚真の時代は「黄金時代」か』①と②という文化コラムが掲載された。執筆者は、1941年那覇市生まれ、沖縄史学者・農学者、沖縄国際大学名誉教授の来間泰男氏。

 氏の記事では、沖縄空手歴史によく出てくる尚真王時代の「刀狩」について意見が述べられています。下記に、来間氏のコラムの一部を引用します。

 

《・・・・・・》

 まず、正史の中でも最もくわしい【尚真の業績-『球陽』】の記述を紹介する。球陽研究会編『球陽』読み下し編に33の項目があり、その4番目は下記の様に記述がある。《・・・・・・》

④刀剣や弓矢などを蔵にしまって護国のために備えた。

《・・・・・・》

 次に、【百浦添欄干の銘】について記述する。《・・・・・・》現物は残っておらず、撰者も不明だが、漢文で書かれたこの銘文は『琉球国碑文記』に記載されている。その内容は尚真王の功績をたたえたもので、11項目が列挙してある。そのうちのいくつかは『球陽』にも取り上げられていた。《・・・・・・》

刀剣弓矢の類は収容して、もっぱら護国利器とした。

 

武器は放棄されたか

 

 ④とⓔから、これまで、首里王府自体が武器を放棄したかのような理解が見られたが、そうではなかったことが、多くの研究者によって指摘されている。これは、王府の武器放棄ではなく、王府によって武器が一手に掌握されたことを述べているのである。語句の解釈としてはそれでいい。

 武器を回収したから「刀狩」だとする者もいる。日本史の上での「刀狩」との区別を明確にしておかなければ、誤解を招くことになるだろう。日本史では、豊臣秀吉の時代に刀狩があったが、それは武士から回収したのではなく、百姓(農民)から回収して、身分の区別をはっきりさせたのだった。琉球の場合は、「武士」とみなされている「按司」から回収したというのである。

 それでは、本当に、按司たちから武器を回収したのだろうか。もともと組織的な武力集団のいなかった琉球である。武器は、多少はあっただろうが、按司たちにとって重要な物ではないかと思われる。実態として武器が備えられていないということを見て、そのことを尚真の功績として書き上げたものではないだろうか。《・・・・・・》

京阿波根実基、宝剣と空手
2019.01.21

 1522年宮古の仲宗根豊見親から献上された宝剣は王様の守刀として治金丸(1)と命名された。

 京阿波根実基(生没年不詳)は、尚真王の命を受けて宝剣を研ぎ師に鑑定させるために京都へ行くことになった。京都で研ぎ師に鑑定してもらい、無事任務を果たし宝剣を王府に持ち帰った。

 しかし、持ち帰った宝剣は研ぎ師によって取り替えられていたことが判明した。治金丸は京都の研ぎ師を唸らせるほどの名刀だった。持ち帰った宝剣が偽物であることが判明し、再び京阿波根は京都に赴くことになった。3年間探し続けた結果、やっと宝剣を発見し、無事持ち帰ることに成功した。

 王は大いに喜び、京阿波根にたくさんの褒美を与えた。京阿波根の武勇の名声はますます高まっていった。名声が高まれば高まるほど、名声をねたむ者も現れ、ついに王の耳にはいることになったが、王はあえて世間の讒言に取り合いませんでした。ある日、京阿波根を朝廷に招き入れて歓談し、茶をすすめた。しばらくして童子がその隙を見て進み寄り匕首で京阿波根を刺した。

 このときの状況は『球陽』に記述され、文中に「童子の股を空手で打破した」とあり、武術として空手が研究されていたかどうかは不明だが、このころすでに中国人が久米村に帰化しており、また、1372年より始まった朝貢貿易が活発に行われているところから、手(ティー)に中国武術の影響がすでにあったことも考えられ、興味深い記録である。

 なお、京阿波根に関連する記事は『球陽下巻 遺老説伝』、『琉球国由来記』(1713年)、『琉球国旧記』(1731年)にも関連記事がある。

 歴史的な人物である京阿波根実基が、手の使い手であったことは不明です。しかし氏の墓は現在も、首里城下を見守っております。墓は、首里寒川にある美連嶽の裏にあります。

 

 

 参考文献:沖縄空手の定本(津波清著・NPO法人沖縄空手道・古武道支援センター発注)

(1)おそらく、尚眞王のことです。なお治金丸は、那覇市歴史博物館に保管されている。写真はこちらへ

http://www.rekishi-archive.city.naha.okinawa.jp/archives/item1/2059